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10年前の無駄なもの

高校の友人の結婚式のために東京へ2泊3日で小旅行をしてきました。同じラグビー部の同級生も8人全員集まり、朝から夜まで遊び歩き飲み歩きという贅沢を小市民ながら恣にした。

日曜日。結婚式と披露宴が終わり、2次会を締めて新郎以外の8人で3次会へ行動を移した。

1部屋を8人で借りて近況やら他愛の無い話をわいわいと紡ぐ。


1人が約10年前の高校生時代に撮っていた携帯の動画をiPadに保存しているとのことで、みんなで観賞会をし始めた。

フリスビー1つで何時間も遊び続けていたり、カラオケで歌唱とは呼べない雄叫びを上げていたり、部室での無意味なやりとりをただ録画していたり。

「おお!若いww」「これ、何が楽しかったんやww」「やる事は変わらんねww」「あ!これ覚えとる!!」「無茶し過ぎやろww」

顔が映るたび、声を上げるたび、踊り出すたび、笑い出すたび。画質も音質も最低な10年前の僕たちの意味不明な一挙手一投足に、僕たちは笑って、笑って、照れて、癒されて、そして笑った。

40〜50分ほどで全部の動画が見終わって、ふーっと一息着くと、何故だか言葉が出ない。
みんなも同じだったのか、誰と目を合わせるでもなくもじもじしながら当時の余韻に浸されていた。



1日経った今でもその時の感情に名前を付けることが出来ずにいる。大人になるということは何かを失う事なのか、何かを失った時に大人と呼ばれるようになるのか。

動画の中の僕たちは、今が青春時代だと本能的に理解していた。1年の330日ぐらいは顔を合わせて部活やら勉強やら遊びやらに明け暮れていた。それでも飽きる事なく迸る青さを無尽蔵と示さんばかりに爆発させていた。
恐らく、大人になった今では、「無意味」「疲れる」「飽きる」などで無駄だと一蹴されてしまうような遊びでも、「これが世界で一番面白い遊び方だ」「これが出来たら絶対面白い」と信じて疑わなかった。
「今」という時間を消費するのに躊躇いは無く、「永遠」の存在をどこか少しだけ信じていて、友達と一緒に作り上げた自分の「居場所」の中で、精一杯、青春を謳歌していた。
こころもからだも不安定な時期に、喜怒哀楽を共にして形成された自分の「居場所」は本当に心地が良く他の誰かで代用できるものじゃないから、尊く思える。

そして時を経た「10年前の無駄」に、心を動かされ、明日への活力を貰い、大事なことを教えられた。無駄なものを無駄だと切り捨ててしまうことがどれほどに輝きを鈍らせるかを実感した。

みんな歳を取って、仕事が忙しかったり、守るものが増えたり、お酒や大人の世界を覚えたり、世間の目を気にしたり、走るとすぐ疲れちゃったり。

何かは変わったけど何もかもは変わってない。
記憶の断片をつなぎ合わせて、友人と答え合わせをして1枚の大きなパズルを完成させていく様は、大人だけに許された特別な遊びだ。


今できることは、今の時代の動画を10年後に見返してまた勇気を渡せるように、毎日を愚直に無駄を怖がらずに生きていくことだと思う。

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