作曲こぼれ話①「Kagura Paraphrase for prepared piano 」
筆者の出身である長野県では、コロナで影響を受けたアーティストやクリエイター向けに県独自の応援事業が実施されています。この事業で採択された企画は、各々が動画制作を行い、完成された作品は県のウェブサイトにて順次公開されていきます。
作品一覧はこちらから。
今回は、この応援事業にて制作された自作品「Kagura Paraphrase for prepared piano」についてのこぼれ話です。
【Kagura Paraphrase for prepared piano】の作品動画はこちらからお聴きいただけます。
作品タイトルにある「Kagura(=神楽)」ってなんだっけ
簡単に説明します。一番身近なところにあるのは、地域のお祭りなんかでお神輿や踊り(舞)がある時でしょうか。神楽の音楽は、祭りの中の舞や儀式とセットにあり、それ自体が独立してあるわけではありません。そのため、祭りで行われる舞と音楽をひっくるめて「神楽」と呼びます。ただ、神楽にも色々な種類があり、大きく分けると「御(み)神楽」と「里神楽」の2つになりますが、一般的に地域に浸透しているのは後者の方で、前者は基本宮中で行うものなので政治性、宗教性が強くなります。御神楽は雅楽にも繋がっていくのですが、ひとまずこの話はここまでに。
さぁ、本題へ。
今回の作品では、長野県に現存する里神楽を題材にしています。里神楽もまた地域によっていくつか系統があるのですが、今回は2つの神楽を自作品に引用しています。一つ目は、私の地元である長野県長野市に広く分布する「太(だい)神楽」、二つ目は、戸隠や駒ケ岳地方にある「太太(だいだい)神楽」です。
太神楽と太太神楽
その① 太神楽
さて、神楽を「引用」をするにはまず情報収集が必要です。筆者は、地元の「神楽保存会」で、小6から高3まで篠笛を教わっていたため、資料が集めやすい点から地元の太神楽を選びました。基本的に日本の伝統音楽は口頭伝承のため西洋音楽のような「楽譜」がありません。私自身も、お師匠から口拍子で習ったため基本楽譜がないので、今回は昔の演奏映像から笛の旋律と太鼓のリズムを耳コピしてます。また、同じ太神楽でも多種多様で隣町では全体の構成・尺はほぼ同じでも、笛の旋律や太鼓のリズムが若干異なります。ちょっとずつ違っていてそれぞれがオリジナルとなるのですね。そのため、太神楽の音楽といっても引用されたものは私が習った町に残る神楽に限定されます。
こちらは地元の秋祭りの舞い込みの様子。(撮影日:2013 0923)
地元の神楽の演目には、道中囃子、しゃぎり、ほろ舞、鈴舞、本舞などいろいろとあるのですが、今回の作品では村舞の中から「ほろ舞」と「鈴舞」の太鼓のリズムと篠笛のメロディーを引用して作曲しています。太神楽は獅子神楽とも呼ばれるようですが、二人立ちの獅子による舞によって、五穀豊穣・天下泰平への祈りが演じられ、音楽は「太鼓・鉦・篠笛」の編成で演奏されます。舞の途中、「や、東西南北 あくまをはらってめでたいな〜」「そりゃ おめでたい〜」などの掛け声が入るわけですが、この言葉から「祝う」ことそれ自体が一つの「祈り」としての機能を持ち、日本の言霊信仰や前祝の風習にも通じるように思います。
その② 太々神楽
先ほど述べたように、太々神楽もまた地域によって異なるわけですが、その中から戸隠と駒ケ岳の神社での神楽が作品の中で引用されています。この神楽は、『信濃の伝統音楽』(著:村上弘 )という本で紹介されていて、その本を読んで初めて知りました。
本の外観はこんな感じ。
この地域の太々神楽は一年の決まった日時に神社で奉納され、演目はざっと10-13程度あるようですが、その中の一つの「三剣の舞」という舞楽について興味深い記述がありました。以下、一部引用します。
「三剣の舞」は、「三密三修の舞」ともいわれ、修験道の精神を最もよく表しているものである。即ち、修験道では人間の心に潜む百八煩悩の根源は、むさぼり、いかり、愚痴の三悪で、それらが心の奥に秘められているので、「密」であり、おこない改めるので「修」であるとし、外へは金剛の法剣を振い、内には大智利剣によってその三根を斬り捨て、怨敵を降伏する舞であるとしている。(p69. l8-11)
戸隠や駒ケ岳ってご存知の方は分かるように、とっても山深い所にあります。そのため、山岳信仰からなる修験道の精神からの影響があり、この引用文を読んでも、元々神道が根っこにある神楽の中に、仏教の教えが多分に含まれていることが分かります。また「法剣・利剣」は仏教用語で、どちらも煩悩や悪魔を断ち切る際の剣(=智慧)を示します。
ところで、現代の日本のパワーワードでもある「三密」が、この文章でも述べられていることにお気づきかと思いますが、偶然とはいえ「密」は避けられるべきものという点でもコロナ禍における「密」と一致しますし、密になるものを「斬り捨てる(=分断する)」行為によって敵を負かすという発想もまた、現代の感染予防対策に通じるところがあるような。(ちょっと拡大解釈?…)
ちなみに、実際の「三剣の舞」では、3人の若人が剣を両手に振りかざしながら、跳躍と反閇を思わせる所作を繰り返し行うようです。筆者は、実際の舞を見ていないので、上記の本の著者である村上さんが採譜された「三剣の舞」の譜面を基に作曲をしました。
上記の本に「三剣の舞」の様子が掲載されていました。
『信濃の伝統音楽』p70 (著:村上弘 出版:音楽之友社) より
コロナ禍における「外側の三密」と「内側の三密」
コロナ禍での「三密」とは、「密閉・密接・密集」を物理的に避ける行為を促し、またそれが一つ社会性として認知され始めています。しかし、上記の引用文に示されている通り、人の心の内の中にも「三密」があり、この「密」は「芸」によって打ち勝つことができるとされています。
音楽を始め芸術の多くは、人々が大勢集まった「密」な空間でイベントが行われてきました。それが不可能に近い今、いかにこの状況をどうクリアしていくか各々が模索しているはずです。
ただ私が思うに、少なくとも「芸」は、内側に密めた心の膿を外側に向けることで心を解放することができる。ということです。どうしたって人間の心には膿のようにジクジクした「邪さ」があって、そういった嫌な面は、コロナを通して多くの人が目の当たりにしたのではないでしょうか。ですが、見たくない、知りたくない人の嫌な部分もまた、愛すべき人の姿であり、そのことを多角的に捉える・または受け入れることは、(私にとっての)音楽の普遍性に直結します。
外界にある物理的な「密」を避けることだけでなく、内側にある自分自身の「密」にもまた気がつくことで、目の前の景色が少し優しくなったら、そんな丸みの帯びた世の中であったらいいな。なんて思いながら、NO!三密の中で「芸術」が社会の中でどのように受け入れられていくのか、『三剣の舞』から何かヒントが得られたような?そんな気もします。
こぼれ話、本日はここまでに。
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