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靴の中の小石。


気持ちよく晴れた春の朝。妻と一緒にコメダ珈琲に向かう道すがら、左足の裏がチクチクと痛むことに気が付いた。




どうやら小石が靴の中に入っているらしい。




くるぶしの上にかかるくらいのブーツを履いているので、パッと脱ぐには億劫だし、コメダまでも数分で着く距離感だったので、そのままにして歩き続けていた。




うまく左足を振って、土踏まずのあたりにおさまってくれればその一歩は痛くなくなる。「うまくいった!しめしめ」と、ちょっとゲーム感覚になる。




それでもうまくいくのは3回に1回くらいで、左足が地を踏む都度、僕は小さな痛みを煩わしく感じていた。




ちょっと立ち止まって靴を脱ぎ、小石を取り出してしまえばそれで済む。




でも、一緒に歩いている妻の歩みを止めることにもなるし、我慢できないこともない。なにより脱ぐのも面倒だ。





立ち止まろうかどうしようかと逡巡しながら、小石を土踏まずの位置に調整するゲームを繰り返しているうち、ふと気づくことがあった。





これって人生に似ているな、と。





妻との会話



僕「今、気付いたことがあるんだ」




妻「何?どうしたの?」




僕「今、靴の中に小石が入っていて、とっても煩わしい。でも、立ち止まるのは億劫で、コメダにももうすぐつくから我慢もできる。」



妻「うんうん」




僕「だから痛みを我慢しながら歩き続けることにしたんだけど、ずっと気になっちゃってるんだよな。」




妻「でももうすぐ着くからそのまま行くんでしょう?」




僕「そうなんだ。でもこれって、我慢を選んだことで失ってるものがたくさんあるような気がする。」




妻「たとえばどんな?」




僕「僕の意識が、痛みを我慢したり、小石を土踏まずの位置にもっていくゲームに絡めとられているわけ。」




妻「うんうん」




僕「それって、一緒にこうやって歩いている時間を楽しんだり、もっといいアイディアを考えたり、面白い話をするためのチャンスを奪われてるってことなんだよなって。」




妻「なるほどね。」




僕「立ち止まって痛みを取り除くことに向き合うって、大切な気がしたんだよ。これって人生に似ているなって思った。」




妻「私がmeiさんにコーチングしてもらっているのも、それが理由だと思うな。」




僕「うんうん。もやもやを晴らすために立ち止まるのって、その後の時間をちゃんと大切にするために必要なんだな、って思ったよ。」








そうして、コメダに着いた。


靴の中に、小石が入ったまま。





この文章を書きながら考えていること


「靴を脱いで、小石を取り除く」なんて、10秒もあれば済むことなのに、それを選択できずに目的地に着いてしまったことから、思い浮かんでくることがありました。





自分一人じゃなく、誰かと連れ合っているときに、「自分が邪魔をしてはいけない」という意識が働いて、我慢を選んでしまうこと。





お願いしたら聴いてくれるであろう妻を相手にしてさえ、歩みを止めてもらう、ということをお願いする勇気が湧かなかったこと。





我慢できないほどではないけれど、気になるくらいの小さな痛みでさえ、めちゃめちゃ頭のリソースをもっていくこと。





我慢を選ばなければ「この先の道中もっと快適に過ごせる」ということを想像してさえも、我慢を選んでしまったこと。





立ち止まって靴を脱ぐことが大切、と自分で口にしながらも、結局そんな話で気を紛れさせながら、目的地に着いてしまったこと。





「ここまで我慢すれば済むし」という言い訳を自分にして、「10秒のロス」を選べなかったこと。





人に迷惑をかける「かもしれない」という自分の頭の中の勝手な想像は、「我慢」・「数分の思考のロス」・「楽しい散歩時間を台無しにする」という大きな代償を払ってでも、「迷惑をかけない」(と、自分が思い込んでいる)選択を、自分に強いること。






セッションを通じて、届けたい価値を思い出した



先日のライブで、「気がかりがあるせいで、自分にとって楽しみだった時間がゴミになることが悔しい」、という話をしました。



楽しみにしていたロックフェス。



でも、その日の前日まで熱を出して会社を休んでいた僕は、上司を含む3人から糾弾され(泣きっ面に蜂ですね)、週明けに会社に行くのが億劫でした。




対処できることは果たして(締め切りに向けて代替をお願いするとかね)、もう自分にできることはない、という状態でフェスの日を迎えたのだけれど、ずーっと、その3人の顔が浮かんでいました。




仕事に追われている時間から離れた音楽を聴いている時間って、心が自由になるんです。



心が自由になってしまった瞬間に、嫌な感情や気持ちが流れ込んでくる。




ずっと楽しみにしていた音楽を聴く時間は、急速に色を失い、嫌な感情を味わう時間になりました。




耳から音楽は聞こえてくるし、会場にいるから熱気は伝わってくるし、「イマココ」を生きているはずの僕の身体とは裏腹に、僕の心は過去と未来に閉じ込められていました。




糾弾された過去と、週明けの嫌な想像で描かれた未来とに。




頭の中に浮かんでくるのは、自己保身のための理論武装です。身を護るために、必死に頭のリソースを使う。




痛みを伴う感情に耐えるために、より一層エネルギーを使う。





気がかりやもやもやを消化しきらずに、「心が自由になってしまったとき」に、大切にしたい時間がゴミになる





人生を踏みにじられた気持ちになって、とても悲しくて辛かった






人は誰しも、きっと靴の中の小石を抱えて生きている。






自分で靴を脱いで出すこともできるけれど、生きている間に砂地を歩けばまた小石が紛れ込むこともあるだろう。





そんなとき、今の僕には選択肢が増えている。





「ネガティブな感情とともにいる」術を学んだし、一人で向き合えなければコーチングをお願いしてコーチと一緒に「ともにいてもらう」こともできる。





楽しみにしている時間を二度とゴミにしないために、そのときまでに気がかりやもやもやに対処することを自ら選ぶ、という選択肢だ(自分一人で対処する時間をもつことも、誰かに頼ることも、選ぶことができる)。






そう、靴を脱ぐために立ち止まる、という選択肢だ。






僕は、楽しみにしていた時間が自分の心のなかのもやもやに踏みにじられる辛さを知っている。



そして、それに対処するための手法として、コーチング、という手段をもっている。






靴の中の小石を取り除きたいときに、一緒に立ち止まって、小石を取り除くための時間を、届けることができる






僕が人のためにできることを、またひとつ、言葉にできた気がする。




煩わしかった靴の中の小石が、僕にまた一つ宝物をくれた朝だった。

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