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稽古考23

■ 2003/07/16    「少年部指導」考

少年部指導の難しさを痛感する。怪我をしないよう注意するのだが、それでも怪我をする。別にふざけている訳でも無いのに、怪我をする。まして、集中力を欠き、ふざけていては尚更、怪我をする。真剣な子供とふざける子供。武道の稽古は、この対照的な子供を包摂しやって行かねばならない。

近鉄道場では、文化サロンと言う特徴もあるが、そうなっている。この場合、怪我をしないように、又、真剣に稽古する者の為に、ふざけて稽古に集中しない子供に、私は何度も「稽古する気が無いのなら来なくてよい」。と言ってきた。これは間違っているのだろうか。

子供は、ある時期を境に大変伸びることがある。ですから、子供を固定的に捉えることはせず、過渡的に長い目で見てゆく必要がある。と、常々思ってはいる。しかし、それには子供自身もその環境になじむ努力が要求される。或る程度、武道をする気構えで臨んでもらわねば、家庭の生活をそのままを持ち込まれても困る。小学生低学年にそれを望むのは無理なのだろうか。どうも小学生は、高学年と低学年の集中力に大きな差があるように思えてならない。武道なのだから、もう少し高い稽古年齢の基準を設けた方が良いのではないだろうか。と、最近はよく考える。

以前にも述べたが、少年部の指導において私は、『難しい表現であっても、合気道に関する語彙は そのまま使う。勿論、出来るだけ平易な表現にするが、説明も一応におしなべてする』と言い、『完全に理解できているかどうかは頓着しない。繰り返し言う』、『私はそれが子供らに対する関わり方だと思ってやってきた』。とも言いましたが、このごろ、少し自信がない。

やはり聞きうる年齢、聞きうる環境が必要なのではないか、こちらの一方的な思い入れ、意気込みだけではかえって子供を傷つけてしまうのではないか。と考えるようになる。子供を叱るのではなく、正面から対峙する(言って聞かす)。などと言ってみても、所詮それは、私(大人)の思いこみであって、子供からすれば、訳の分からない言葉の押し付けにしかならない。それより、「怒られる」方が、子供にとっては自然に受け入れ、納得出来るものなのだろう。と、近頃、反省しきり。


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