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今、我らに足りないのは生活だ ー後編ー

「テクノロジーによって家事を効率化し、その浮いた時間で仕事に専念!」
現代社会のスローガンみたいですよね。
一見、画期的で人々の需要に応えるものの様に感じますが、
それと引き換えに失う人間として大切なものがあるんだと思っています。

さて、前編に引き続き今回は後編です。

テクノロジーによる効率化は様々な場面で発揮されています。
キャッシュレス決済や無人レジ、AIを使ったサービス等・・・
これらは今まで人間がやっていた、やってきた事を、機械化、デジタル化していますね。
それらがどういう事なのか、私は人間の能動的活動の衰退を意味しているように感じます。感覚的に言うと「怖い」
かくいう私も、電子レンジや冷蔵庫、洗濯機等の家電を使っていたり、10年ぶりにクレジットカード作って、うぉおん便利!とか思ったり、Spotifyのオススメ便利やなあ・・・とか思ったり、タクシー呼ぶアプリとか使っているわけですが、使いながらも怖いなあと怯えながら使っていたり・・・たりたりたり・・・Talib kweli・・・
テクノロジーの恩恵をもろに受けている世代ではあるんですが、どうにもそれに完全に乗り切れない自分が居るのです。

前編で引用した宇多田ヒカルの言っていた
「周りから過保護に守られた生活をしてきました。」
この「過保護」については、最近よく考えていたテーマで、テクノロジー以外にも、主義や思想、それに伴う運動だったり社会の流れ等にも過保護性を感じていて、「不快に思う人間が居るからやめましょう」とか「禁止にしましょう」「規制しましょう」っていうのは、「禁止されているから」で片付けられてしまう事になる危険性を孕んでいるという事で、要するに「それについて考えなくていい」ということになってしまう。例えば、「ドラッグはやっちゃだめ。何故なら違法だから」じゃあ、そのドラッグにはどんな種類があって、どういう作用をして・・・何故禁止されているんだ?という事まで考えることをする人はあまり居ませんよね。
そして当事者意識も遠のき、表面的な規定された善悪で物事を判断してしまうんではないだろうか。

先日石川町の川沿いをバイクで走っていると、ブルーシートハウスを見かけた。近年、ホームレスを路上で生活させない(寝かせない)ためのオブジェ???や、ベンチが増えたりしてホームレスを見掛けることも少なくなったが、そういった人達は居なくなったのではなく隠されているだけなんだよなあ。と思った。
10代の頃は横浜駅にもそういった人達がウロウロしたりしていて、タバコをあげたりしたこともあったが、今の若者からしたらありえない世界なのかもしれない。
でも、そういう経験や、存在がこの目で見えていた時はほんの一瞬でもその人達の事を考えたりした。

今、何か過保護的な何かがそういう経験や見る機会、考える機会を奪っているような気さえする。
勿論、そういったホームレスや路上生活者、浮浪者が、幸せであること、幸せになる事を願うし、困っているのなら支援できる仕組みはあるべきだとは思うが、存在を隠す事になることは絶対に避けたいものだ。

そういった意味でも近年私が感じる世の中の「過保護感」には危機感を抱く。

規定や効率化、犯罪化、そういった人々が一見助かると感じるような、便利だなと思うこと、需要があるように見えるものには、自らが引き受け、考える機会を奪いかねないし、更には己の加害性・被害性をも曖昧にし、他人事とか絵空事と思ってしまうかもしれない。

じゃあ、どうしたら良いんだって言うのは私も考えているし、各々が自らの事を自ら引受け、考えることをやめない事から、とにかくまずそこからやっていかなければならないんだと思う。
そういう意味でも、昨今の効率化社会においての「生活不足」は、危険だし、進んでやっていきませんか。という事で、しかし何故人々が効率化を求めたのかは、時間や金銭的余裕の無さが一因だとは思う。
お金が無いと生活出来ない、だから、お金を稼がなきゃいけない、でも、仕事をしてたら家事が出来ない。じゃあ、家事をテクノロジーによって効率化しよう。
でも、それって人間としてどうなんだろう。どこに向かうんだろうか。
まず、どのくらい稼がなきゃいけないんだろうか。その細かい金額が分かっている人はどれ位居るのだろうか。老後2000万円問題だとか、メディアで見掛ける数字に囚われて自分の本当の数字は見えているんだろうか。
キャッシュレス決済等で感覚的な支出がぼんやりしてないだろうか。

起点は自分の筈である。で、あれば自分の根本的な「生活」生きる活動について考え、実行していくべきではないのだろうか。

今日の晩御飯は鯖の味噌煮。






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