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今、我らに足りないのは生活だ ー前編ー

SNSでテーマや質問を募り、それについて書いてみたり自分の書きたいことを書いていったりしようと思っています。画像はテーマ毎に毎回書き下ろしていこうかと思います。あと、収益化は絶対しません。
ていうか、めちゃくちゃ久しぶりになってしまった。相変わらずの三日坊主感。書き途中のまま放置してました・・・
書き出したらちょっと更に言いたいことが溢れかえってきて長くなりそうなので前編・後編に分けてお届けしようと思います!

今回は以前、私がTwitterで呟いた「今人々に足りていないのは生活だ」について詳しく聞きたいという方がいらっしゃったので、その件について書いていこうと思います。

私は実家暮らしだった頃(まさしく生活をしていなかった頃)から「生活」することに対して強い憧れがありました。自分の家で(親の家ではなく)自分が選んだ物で生活をしたいと思っていて、いつか実家を出た時に使いたい生活用品を未来の自分の生活に想いを馳せながら集めていました。しかし、努力が嫌いな私は「実家を出る」ということのハードルが高過ぎてなかなか実家を出ることが出来ず、賃貸サイトを眺めながらワクワクするという妄想遊びをするだけでいたずらに時間だけが過ぎていきました。

よく夜更かしばかりしていた頃の早朝、お腹が空いてキッチンに向かい、朝食を作って食べた時の印象が強くて今でもたまに思い出す。
その時のブログが残っていたので引用します。

絵に描いた様な朝食。
スクランブルエッグにベーコン、サラダにトースト
バナナ入りのヨーグルトにブラックコーヒー。
もし、一人暮らしをしたら、
引っ越した次の日の朝(初めての其処での朝食)は
こんな朝食を作ってしまうんだろう。
まだ薄暗いリビングで一人
そんな朝食を食べていた。       これから寝るのに。
人から見ればどうしようもない人生なんだろう。
なんの変哲もない平凡な朝に
なんとなく大いなる幸福感を得た。
「ああ、なんか今日は死んでもいいかも」
人生の中で何回この台詞が言えるだろう。
勿論良い方の意味で。
今日は五月最後の日。

今でも思い出しますね。その時の幸福感。
誰も居ない静かなリビングで疑似一人暮らししていたんでしょうね。
家に誰も居ない日に布団干したりするのも好きでした。
「生活してるわあ〜〜」って思ったんでしょうね。

テーマの「今、我らに足りないのは生活だ」ですが、
皆さんは生活していますか?

広辞苑によると、
生活とは「生存して活動すること、生きながらえること」「世の中で暮らしてゆくこと」とあります。

生活とは基本的に、命をつなぎ活動することであり、また生きながらえるために行う様々な活動である。 人は生き続けるためには、少なくとも、何らかの栄養を取らなければならず、(一般に)身体に何かをまとうことで体温を保つ必要があり、また野の雨や風をしのげる場所で眠りをとることを必要とする。つまり食べること、着ること、住まうことである。日本では、そうした生活の基本を漢字で簡潔に表現しようとする時は「衣食住」(いしょくじゅう)などと表現する。「衣食住」の基本は、人が生活していく上で必要な、食(食事)、衣(衣服)、住(居住、雨風をしのげる寝場所)の確保である。(Wiki)

ここで出てくる「生きながらえるために行う様々な活動」の大半を「金銭を稼ぐこと」としている人が多いのではないのかなあ。というのが私の感覚としてあって、「お金があれば食べられるし、服を買えて、家にも住める」ということなのでしょう。それは現状紛れもない事実ですが、果たしてそれは能動的か?ということを思うのです。
お金によって得たサービスを受動している。お金から自分までの距離が凄く近く感じるのです。

例えば、

  お金を払って→お惣菜を買う→食べる
  お金を払って→食洗機を買う→食器が洗われる
  と
  お金を払って→食材を買う→その食材を使って食事を作る→食べる→
  その際使用した食器を洗う

上と下は、食事の例で お金を払う→食事から食事の後の片付けまでの簡単な流れを示したものですが、
上はお金を払ってから完結するまでが短く、下はそれよりも長いです。
そして、太字の部分は私が能動的であると思う部分です。

他の様々な家事でもこういった事があると思いますが、自分が自分の日常生活の中でどれだけ太字が多いかということ、能動的行為が多いかという事が大事な気がしているのです。
昨今、家事効率化が話題になり、様々な便利家電が登場してきました。
それにより、家事に割く時間が減り、仕事や自分のやりたいことをする時間が確保出来ると言われています。
しかし、私はそれで良いのかとずっと疑問なのです。
家事に割く時間が減るということは、生活、すなわち「生きながらえるために行う様々な活動」の本質的・・・根本的な活動が失われているのでは無いかと言うことで、現代的に言えば、食事は食べるだけで良いのかという事、服は全自動洗濯乾燥機に任せて自分は着るだけで良いのか、掃除は掃除ロボに任せて自分はそこに居るだけで良いのか・・・・自分の人生の自分の生活の基本的な事なのに!?と私は思ってしまうのです。
家事はなかなか頭を使うものです。料理一つにしても火加減だとか調味料の量だとか、そもそも献立を考えるにしてもそうですし、洗濯もどうやったら綺麗に汚れが落ちて、どう干したら洗濯物は早く乾くのか?とか、どうやったら、どうなるか?の想像、自分の生きる上で必要な根本的な部分への想像を仕事や自分の好きなことをする時間と引き換えにしてしまっていいのだろうか。
効率化を実行するのは機械じゃなくて、自分の頭で考え実行していったらどうだろうか的な。
そして、そういった人間の生きる上で根本的な密接な物事こそ積極的にしていくべきではないかと思うのです。
極端な話ですが、例えばお金というものがなくなって、世の中にあった当たり前のサービスがなくなった時、どうするんだと。今までお金で解決出来ていた事が出来なくなったら?自分でやるしかないのです。今と全く違った世界に放り出されたときにも生きていける生き方が生きる事なんじゃないかなあと思ったり。

宇多田ヒカルが2010年から約5年間活動休止をした時、「人間活動に専念するため」にと言っていましたが、その人間活動は私が示したような「生活」を多分に含んでいたのではないかと想像しました。

本人のブログに

「宇多田ヒカル」が音楽に専念できるように、周りから過保護に守られた生活をしてきました。人からは、年のわりには人生経験豊富だね〜なんて言われるけれど、とても偏った経験しかしていません。
この12年間、アーティストとしては色んなことにもチャレンジしたし、少しは成長できたと思います。でもこれ以上進化するためには、音楽とは別のところで、人として、成長しなければなりません。

と書かれていました。
宇多田ヒカルレベルのビッグアーティストの言ってる事だから、自分の事とはどうやったって比較や共通性を見出す事なんて出来ないとか、想像もしない人も居るかもしれませんが、
この、「宇多田ヒカル」が音楽に専念できるように、周りから過保護に守られた生活をしてきました。

「私」が仕事に専念できるように、周りから過保護に守られた生活をしてきました。
と置き換えると、なんかちょっと分かる気がしませんか?
この、「周り」は家族だったり、パートナーだったり、はたまた「テクノロジー」なんて事もあるんじゃないでしょうか。

「テクノロジーによって家事を効率化し、その浮いた時間で仕事に専念!」
現代社会のスローガンみたいですよね。
一見、画期的で人々の需要に応えるものの様に感じますが、
それと引き換えに失う人間として大切なものがあるんだと思っています。

後編へつづく

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