「思い出のマーニー」

「思い出のマーニー」とタイプするときに「思い出マーニー」としそうになってしまうのは後者のほうが語呂・語感が良いからだろうけど、ではなぜ「の」をわざわざタイトルに入れたのかと想うに物語のオチにも関わってくるからかあ、とか(以下ネタバレ当たり前のように含むお話になります)。


そろそろマーニー借りてみてもいいかあと思ってたところで日テレで放送してたので録画して昨日ぐらいに見てみた。単純に「良かった」な作品であまりこれについて語るのも野暮っぽいかなあとおもうんだけど、「なぜジブリ(鈴木敏夫+宮﨑駿)はいまこれを作ろうとしたのか?(米林監督に提示したのか?)」が気になったのでそれを調べたlogも兼ねて書いとくのもいいかなあ、って。あとnoteだと書きやすいので。うちの環境だと。


「なぜジブリはこれを作ろうとしたのか?」とおもったのはこの作品のテーマ・モティーフがトトロや千と千尋の神隠しと共通するから。すなわち「病気療養などで世間から疎外されふさぎがちになってた子が子供時代特有の幻想的で固有の体験を通して心をひらいていく」といったもの。調べていくともともと宮﨑駿がこの原作が好きだったようだからこの原作からそういったテーマやモティーフの影響を受けて行ったのかもしれない。あるいは、逆に今回、映画化するにあたってそういった物語の型をこの作品に当てはめることで映像化・物語しやすく切り取ったのか(宮﨑駿はこの原作が好きだが「映像化は難しいからしない。。」といっていたらしい)。つまり杏奈の「病気がち」「療養でその地を訪れ」という設定は映画化にあたって為されたものだったのか?


思い出のマーニー - Wikipedia 

アンナは心を閉ざした少女で友達もおらず無気力だと言われている。唯一の肉親だった祖母を幼少期に失い養親に育てられたが、祖母が自分を残して死んだことを憎んでおり、最近は養親の愛にも疑問を感じるようになっていた。アンナは喘息の療養のため海辺の町で過ごすことになり、そこで「これこそずっと自分が探していたものだ」と直感的に感じる古い屋敷を見つける。

どうやら原作からあった、と。




鈴木敏夫さんによると「(米林監督が)やり残したことがあると映画制作希望をしてきた時に直感的に手元にあったマーニーを手渡した」「マロ(米林監督)は女の子を描くのがうまいから」ということでマーニー映画化における女の子同士の友情はこういった経緯からの演出だったのだろう。鈴木さん自身も「子供の頃は同性同士のほうが仲がよくなりやすい特有のものがある。それをこの時代に描きたかった」みたいなこといってたし。まあベタには百合といわれるものだけど。

百合というとすぐに同性愛のセックスシーンを連想するかもだけど、純度の高い百合的なものに百合ファンが期待するのはセックスシーンというか、セックス以前の心の触れ合いなところなようなので、そういう意味では百合的な作品ともいえた。

ただ、それは単に映画化にあたっての演出・見せ方というだけでこの作品のメインのモティーフ・テーマは別にあっただろうけど。すなわちトトロ・千と千尋、あるいは、アリエッティにも通じるもの。


自我が未だ固まらず、愛情ー自己肯定感、自意識のバランス、自己愛とそれによる他者への攻撃性(あるいはそれがゆえの防衛機制)のバランスがなかなか整わない幼少期・青年期の子供たちが(他人からは単なる幻想と思われるような)幻想的体験をきっかけにその辺りを納得させていく過程。

それらは論理的な合理性はなく「あの体験を通じてなんとなく納得した」「なんとなく、それにとらわれなくなった」みたいなものだろうけど。

「巨匠たちの大作のあとにもう一度子供たちのための作品を作りたかった」といったときにこのあたりのメッセージ・モティーフ・テーマといったものは「子供たちに」どのように伝わったのかとおもう。あるいはそういった悩みをもつ子たちの「そういうこともあるかもなあ。。」ぐらいな余裕にはつながったのだろうか。


ストーリーに戻ると、この作品における主人公、杏奈はたぶん双極性障害・統合失調症的なところがかるくあって、それが「ふとっちょ豚!」という突然の攻撃性や浜辺の幻想世界に表れていた。

幼い時に育ての親を失い、そのことで「自分は捨てられた」「愛されてない」「捨てられる」という不安を抱えていた主人公は自信・健全なナルシシズムを持てず内向的に過ごしてきた。馬鹿騒ぎする他人に対する厳しい視線はそのまま自身にも内面化され、デフレスパイラル的にふつーに笑ったり馬鹿騒ぎすることができなくなっていった。馬鹿騒ぎはしなくていいけどふつーにともだちと接したり笑ったりというようなこと。あるいは、自身のかわいさ・美しさを受け入れることも (>「わたしはわたしがきらい」「かわいいとかいってかまってこないでふとっちょ豚」)。


マーニーというのは祖母から聞かされていた記憶の追体験なわけだけど、それが記憶の追体験だと自身でも気づかないほど耽溺していたのはその記憶、祖母の存在を自身の中で封じていたからなのだろう。そのことは自身が「愛されていた」という記憶を封じることにもなっていた。

そのストレスがコンプレックスとなって双極性障害、あるいは統合失調症的なものになっていたのかと想わせる。幻想の方は統合失調というほど深刻でもないし双極というほどでもないのだけど、物語の初めのほうではマーニーは自身の記憶の産物だと気づかないほどにその世界に浸かっていた。あるいはそれはラストに来るまで「マーニーは杏奈の想像上の人物だった」とわからせないための物語上の仕掛けなだけだったのかもだけど。


いずれにしても杏奈はこの幻想、一人ままごと遊び的なものを通じて「自分は愛されていた」という事実を受け入れていった。とすると「なぜ杏奈は自分は愛されていたという記憶を封じていたのか?」という疑問が浮かぶ。おそらくそれは「愛されていたのならなぜ捨てられた?」「いなくなった?」ということにつながるから。

杏奈の祖母がいなくなったのは老衰による死のためだったのだけど、幼い子供にとっては「死」という現実が受け入れられずに単に「自分は取り残されて知らない人たちの間に渡って行った」という印象だけが残った。ある程度成長し、「死」という現象・現実を受け入れられるようになってその理解が変わったのだろう。「捨てられた」のではなく「死別であったのだから仕方がなかった」に。そして、「自分は愛されていた」という実感が深く残った (>「あなたのことが大すきだよ」「忘れないで」)


そういう意味で言うとこの物語の裏面テーマは子供が死や別れを受け入れるといったところがあったのだと想う。大人になっていくということだけど。


「愛されていた」「自分は愛される / 愛されてもいい存在なんだ」という気づき、実感から杏奈の継母の愛情への疑念・コンプレックスもゆるくなっていった。映画はそのはじまりのシーンをラストとする。



少し思うのは、杏奈にとって湿地(しめっち)屋敷はとても大事な場所でそのことを継母は知っていたはずで、そうすると今回のひとり旅的な療養もすこしそういった期待があってさせたものだったのかもしれない。あるいはそこまで考えてなくて単に自分の姉妹のいる自然豊かな環境なので療養・気分転換には良いかもと思ったからだったかもだけど。でも、杏奈のこういったコンプレックス、そのきっかけに向き合うことの危険と可能性を継母がなんとなく察していたとしたら、そこにも愛情があったのかなあとかおもった。




映画の舞台としては Su Blackwell のブックアートで見たイギリスの片田舎の浜辺を連想した。


Su Blackwell-Book Art」@Pinterest  https://jp.pinterest.com/bhey93/su-blackwell-book-art/


Su Blackwell ポートフォリオ














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αでもβでもなくΚブロガー「正直に本心を吐露すること自体は悪くない。だがそれをしてよいかよくないか、してよい相手かそうでないか、の違いは厳として存在する」
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