「親子の対話だよ」

河瀨直美、2014、「2つ目の窓」: muse-A-muse 2nd http://muse-a-muse.seesaa.net/article/417488578.html


鎌倉の海に行く前に見とこうと思っていてようやく見れた。ほんとは去年の劇場公開時から気になってたのだけど、いろいろあって余裕ができた頃には終わっていたので。DVDでレンタルされつつどうせなら100円で借りられるぐらいまで待とうかなあって。


エントリなのでだらだら話しても仕方ないのでリンクするにとどめたけど作品の構成や表現のほかに俳優の演技が良かった。杉本哲太さんとか松田美由紀さんとかはこういう表情や説得力、滋味をもった演技もできるんだなあというか、、杉本哲太ちから、松田美由紀ちからを魅せられた。


内容にも依るのだけど映画はそういうのに当たる機会がテレビドラマよりも多いようにおもう。演劇に近いというか。大衆芸能→ある程度お金持ち芸能としての歌舞伎的なものが代表としてあってそれを意識して映画も大河ドラマも構成されていたようだけど(そして小津なんかがホームドラマにいった経緯はそこからすると特異だった ― ホームドラマの歴史うんたらとかもあるけどあまりに語りたいことから逸れるので置く)。


自分は演技はやったことないけど嫌な演技 / 間違ってる ― 正しい演技みたいなのへの感性がけっこうつよいのは歌唱にたいするそれと似てるのかなとおもう。歌をうたうことと演技することはけっこう似てるところもあるだろうから。その言外の説得力、身体全体での説得力のところで。セリフや歌詞の抑揚、節回し以外のところ、呼吸や間合いで情感をところなんか。


「2つ目の窓」でもそのへんを滋味に感じつつ、既に実力を持った俳優さんのほかに主演の若い二人の存在感も気になった。吉永淳さんはモデルとしてデビューということだけどほぼ完成されているようにおもったし、その原石的な部分としては「萌の朱雀」における尾野真千子さんのことをおもった。あの頃はそんなに意識してなかったけど(そして「もがりの森」の当時も現在ほど売れっ子になってはなかったようにおもう)。朝ドラはやっぱジャンプアップとして威力あるなあ、とかおもいつつ、吉永淳さんも朝ドラ的な感じといえばそうで、いずれそういう形で一気に有名になるのかな。

もうひとりの主演の村上虹郎くんはまだスれてない野生を残した少年的な瞳や全体の質感が「誰も知らない」のころの柳楽優弥さんを想わせた。村上淳さんと実の親子というのをあとで知ったのだけど、自分的には親子のあの場面がこの映画のなかで一番残るものになった。


1997年に歌手のUAとの間に、虹郎が誕生し、その後2006年に離婚。本作で共演する村上と虹郎は、実生活と同じく、離婚後、離れて暮らす父子を演じている。劇中には久しぶりに居酒屋で再会した息子が、父親に離婚の理由を問いただすシーンがあり、トークイベントではその舞台裏も明かされた。
一部で「虹郎のアドリブ」と報じられた同シーンだが、虹郎によると「撮影中、河瀬監督から『なんで別れたのか、聞きなさい』ってメモ書きがひょいっと渡された」といい、「アドリブというよりは、その場で脚本が付け足された感じ」。そして、“息子”からの問いかけに答える父・村上のセリフについて、「あれこそ本当にアドリブ。母との出会いや、東京への思いとか、初めて聞くことばかりで『へえ』と思った」(虹郎)と語った。
「こちらも腹はくくっていた」という村上は、「七夜待」(2008)で河瀬監督とタッグを組んでおり、「芝居をすればするほど否定されるし、脚本以上のものが役者から発せられなければ、絶対にカットをかけない。あのシーンは4時間くらいずっと(キャメラを)回していた。エグイ人だよね(笑)」と振り返った。



「なんでかあさんと別れたの?」

「ストレートな質問だなw……その日になんどかお母さんと会って、なんか意識して、運命だと思ったんだよね」

「運命だと思ったならなんで離れて暮らしてるの?運命ならおかしいじゃん」

「んー…キレイごとかもしれないけど、一緒に居るより離れて暮らすほうが一緒に居るように思ったんだよね。若い頃は運命というのはドラマチックにドドドーンと来るような感じだったけどいまはそういうのでもなくて、、なんだろう、、」


そういった会話になっていたように思うんだけど流れで「なんで東京に住むの?(彫師、あるいは画家だったら)沖縄でもいいじゃん」に対して「東京ってのはごみごみしていて窮屈な街だけど東京にしかないやさしさのようなものがあって、ここでしか表現できないものがあるように思うんだ」と答えてるのも印象的だった。そういうのは河瀬監督が単なる自然賛美ロハスでもないってことなのかなと。



こちらの記事を読むとやはりこの映画の中心はあの場面だった、あるいはこの親子だったというのが分かる(いまさっき発見したので結果的に自分の感じ方で合ってたのだなあとかおもった。


村上虹郎アドリブ「何で母さんと別れた」 - シネマニュース : nikkansports.com http://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp1-20140523-1305340.html

カンヌの舞台に、俳優駆け出しの息子と映画俳優21年の父が並んだ。06年8月に淳と歌手UAが離婚後、虹郎は母と暮らしてきたが、劇中でも離婚後、離れて暮らす父子を演じた。1年半前に淳が河瀬監督から取材を受けたことが、全ての始まりだった。
 淳 「(監督が)映画を撮りたい。取材させて。離婚して(母子が)島に移り住み、東京に父さんがいて、どういう心情かを教えて」と連絡してきた。取材2回目で脚本になって、どう読んでも、「主演が虹郎だろう」と感じました。
 淳は虹郎の感受性の強さを感じ、河瀬監督作品への出演を勧めた。「08年、『七夜待』に出演し、非常に俳優を追い込む監督だと感じたから」。
 俳優業に興味のなかった虹郎だが、父に勧められ、やる気になり、昨年6月に留学先のカナダから帰国。しかし、UAは大反対でオファーを断った。
 虹郎 「(UAは)早すぎる。人としてもまだ出来ていない」と。でも、後悔したくないから一晩話した。父母の出会い、芸能界での苦労とか…を、初めて聞いた。良かった。
 母を説き伏せ、オーディションを受けたが落選。それでも、河瀬組の美術部に入り、冷蔵庫を洗うなどしていて主役に選ばれた。「何が分からないかも分からない」状態で演技する中、父との共演が決まった。


エグいということでいえば映画宣伝的にも実の離婚親子のこの場面が引きになってたのかなあとおもうに、そこで単なる客引きで終わらすのではなく監督自身の物語も掛け金にしたところはあったのだろう。そうはいってもUAのひと的にはどう感じたのかとかおもうけど



村上淳の実話が劇中に…UAとの息子が初めて聞く両親の話に驚き - シネマトゥデイ http://www.cinematoday.jp/page/N0064985

 「台本にはないセリフで僕はキッカケだけ任され、それに応えた父のセリフこそ完全なアドリブ。あれはやっぱりすごかった」と称賛し、「劇中の篤の話でありながら、完全に父(淳)の自伝を語っているし、僕の母(歌手のUA)との運命的な出会いなど初めて聞く話で『へえー』って思った」と驚いていた


国内的にはそうでもフランスとかでもそういうのは伝わったのかな。まあ演技の空気感とかはなんとなく共有されるだろうし、全体的には韓国や中国映画への関心とおなじく、テレビを通したステレオタイプではない極東のふつーの人たちのリアリティの一環として「自分たちにはない感性」として見られてるのかなと思うけど。なので河瀬監督の奈良の森は効いてるのだろうし、沖縄の海やガジュマルの様子も効いたのだとおもう。スミザーさんもそうだけど欧米人は日本の多様で豊かな植生に目を引かれるので。



あの場面は(つくられたセリフではない)真の親子の対話というところで自分は意識したところもあったのかな。とくに離婚した両親をもつ子どもの。そして親から子につたえるものとして。



年代的にもそうなのだろうけどそういうのは沙村 ー 岸本対談でも気になった。



「茶箱広重」と「無限の住人」のこと: muse-A-muse 2nd http://muse-a-muse.seesaa.net/article/417511118.html?1429388637


少年ジャンプ+ 岸本斉史×沙村広明対談 http://bit.ly/1DSqJmS


沙村 でも、それもいいと思うんです。若い読者の方は刺激的だったりインモラルだったり倒錯的だったりするものに憧れるところがあるじゃないですか。で、俺に将来的に子どもができて性格が丸くなって、牙を抜かれたようなマンガを描くようになったら、たぶん若い読者からは「ああ、沙村は結婚してすっかりダメになっちまったな」みたいなことを言われるんだけど、今度はお子さんを持っている読者が共感するものがあると思うんです。
岸本 そう。たぶん変わったら変わったで新しいファンがつく。変わっていくのも楽しいんですよね。
沙村 結婚して子どもをつくるという人間の当たり前の営みの中で変わっていくのも、人としてのリアルだと思うんですね。だから、岸本さんが結婚されて子どもを持って、後半『NARUTO』のなかに父親の視点が入っていったっていうのは非常にリアルで面白いと思います。
岸本 ただ、自分自身は変わってないなと思う部分もあるんですよね。ちゃんと大人になってるのかなって不安になるところが。
沙村 どこから大人になるかって少年マンガの永遠のテーマでもありますよね。俺は「少年」っていうのがなかなか描けなくて。少年を主役にっていうのがたぶん一番自分がやりづらいんです。少年って最初は弱くて、自分より強い男に守られている存在じゃないですか。でも、いずれは守られている状態を脱さないといけないわけで。マンガの王道としてはそういうテーマがあるんですけど、それをどこでどう切り替えればいいのかっていうのが難しくて……。
岸本 「童」をどこで「男」にするかって難しいですよね。
沙村 でも、ナルトもね、最終話でナルト自身がまったく違う人間になってしまったかというとナルトはナルトのままじゃないですか。自分が40代になって今思うのは、大人っていつでもどこでも大人らしいわけじゃないってことなんです。けど、その年齢になるまでに自分が培ったこととか発見したことを、ひとつかふたつ、子どもに言えれば大人としてそれでいいんじゃないかって思うんですね。だから、ナルトにしても、普段から常に大人っぽくなる必要はたぶんなくて、何か「自分がかつてこうだった」とか、「旅をしてこう思った」っていうものを、ひとつでも伝えられれば、もうそれで大人としての役割を果たせているんじゃないかって。
岸本 確かに。俺も何も変わってないかもしれないけど、息子によく言いますもん、『NARUTO』で描いてきたようなことを。それで、子どもからは大人に見えたりしてるのかもなぁ。


あらかじめ「このように育てる」「継がせる」ってパターナリズムでもなく、かといって自由放任主義という責任逃れをするのでもなく、「なにかひとつでも伝えられたら」というのは大庭みな子さんのエッセイでもあったようにおもう。あるいは大庭さんがほかの作家の方にインタビューされた時の言葉か。「うつくしいとおもったり悲しいと思えるような感受性を育んでいきたい」みたいなの。それも教条化すると「お受験」のほうにハイパー・メリトクラシーされてくのだろうけどそういうのでもなく。「なにかをしたいとおもったときにできるような選択肢を狭めないでおく」ということのひとつなのかな。


そうはいってもそういう部分でさえうまく伝わらないのが子育てのようだけど(≠「種を育てるのと同じです。どのように育つかわからない、いつ発芽するかわからない / 発芽しないかもしれない、けど水を与え土を整える(それも与えすぎず与えなすぎず」)。


ネコに朝からワガママされつつネコ育てとはちがうのかな?と思うもネコの場合はある程度までいったらそのままなのだろうし、このコの場合はこういうお転婆ワガママキャラは自分にだけふるってるようだからこのままなのだろう。甘えられて嬉しいというのもあるし。



「2つ目の窓」については「そして父になる」との比較で女性的には、あるいは河瀬監督的には子育てというのはこういう感じになるのかと思ったけど、それは二人の想定する / 接している子育ての段階の違いにも依るのかもしれない。河瀬監督の場合はある程度お子さんが大きくなって「かまいすぎず、あたえられつつ、あたえらえるところはあたえる(あるいは周りから育ててもらうところが大なのだからそこへの回路を開いておく)」という感じで、是枝監督の場合は既存のパターナリスティックな男親の反省、自省、転回のようなものが主で、子供のほうをおもってというよりは「親になる自分」というところが主点だったのだろう(「誰も知らない」の子ども遺棄も絡めて)。そしてそれが社会的公共性の問題とつながっていく。


「2つ目の窓とはなにか?」についてもなんとなくわかったんだけどあまりあからさまするのもなんか野暮だなとおもってやめた。というか意味を多義的にしてあるのでたぶん監督に聞いてもそんなに特定されたものでもないとおもう。

「2つ目の窓」というとき「1つ目の窓とはなにか?」が当然のように疑問にもたげるしそれが確定されてないと2つ目の窓も特定できないのだけれど作品中ではその説明はない。なのでタイトル、あるいは映画の内容からだけだとわかりにくいけど英題の「Still Water」と映画のトレーラーにおける「人生を全うした時に開かれる2つ目の窓」という言葉からなんとなく類推できる。





Stillということで「未だ水に居る」は羊水を想わせるのだけれど、トレーラー的には人生をまっとうしたときに2つ目の窓は現れるという。つまり2つ目の窓とはニライカナイ同様のバルド、あるいはあの世への入り口を想わせるわけだけど。「Still Water」というのはまだ人の世にとどまる / 現象としてひとの世にとどまり、悩みつつこの生を生きるということだろう。あるいはこの性を。

「羊水の中にいる」「モラトリアム状態で悩み続ける」ということでもありそれは若い二人のこれからの歩みも暗示している。







「かえるのこはかえる」 / 「おやこのかえるだよ」: muse-A-muse 2nd http://muse-a-muse.seesaa.net/article/52701763.html



加納明弘、加納建太、2010,「お前の1960年代を、死ぬ前にしゃべっとけ!」: muse-A-muse 2nd http://muse-a-muse.seesaa.net/article/215103969.html

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