ネットで他人を血祭りにあげる人々

夕飯にちょっとひやおろし飲んだら眠い。歳とって酒に弱くなったのかなとおもうけど単に疲労がたまってるのですぐ眠くなるだけなのかもしれない。


眠いので日記はやめといてさっさと寝ようかと思ってたけど地上波でやってるハウルの動く城みてたらちょっと回復したので軽く日記して寝る。ほんとは読書とかDVDとかエントリとか進めたかったけど。



ここ数日は実生活的には日記的な事案もなく「夕方になるのがはやくなったなあ」ぐらい。まだしばらく秋ではないのかとおもってたけどすっかり秋の空でもう秋ってことなのだろう。東京圏域は秋が早い。






下の方は記事に関連する書籍のAmazonレビューの一端。


(引用)

ソーシャルメディアで目立つようになった集団による個人の「公開処刑」とその背後にある人々の心理を掘り下げたルポ/エッセイ。

普通のルポとは一味違う本を書き続けてきた著者は、Twitterで自分の偽物を見つけ、「アイデンティティ泥棒」のアカウントのオーナーたちに抹消するよう頼む。ところが、このアカウントを作ったのは英国の「学者」たちで(カッコつきにした理由は本を読めばわかると思う)、「Jon Ronsonという名前は沢山ある。それを君が独占する権利はない」といった歪んだ反論をしてやめようとしない。業を煮やした著者は彼らと直接会ってディスカッションしたものをYouTubeで公開した。

すると、驚くほど多くの視聴者がRonsonに同情し、学者たちを非難するコメントを書き始め、公の場で辱めを受けた学者たちはアカウントを消した。世間を味方につけた著者は気をよくしていたのだが、学者たちを批判するコメントが凶暴性を帯びてきて不安を覚え、この心理に興味を抱くようになった。

巨大な組織との闘いで困っている個人をTwitterで人々が力を合わせて助けたケースはいくつかあるが、そういった素晴らしい例ばかりではない。少数の友人や知人を相手に放ったジョークがTwitterやFacebookで無数に広まり、それで人生を破壊される「普通の人」が増えてきたのである。

なぜゆえに私たちはソーシャルメディアで人を罰したいのだろう? さほどの罪を犯していない人に辱めを与え、人生を破壊し、いい気持ちになっている自分になぜ疑問を抱かないのだろう?

Ronsonは、現在のネット上の心理だけでなく、人類の歴史でずっと昔からあった「公での辱め」という罰について掘り下げていく。興味深い人々を私立探偵のように探りあて、相手が会ってくれるまでしつこく追い続け、奇妙な場所に潜り込んで体験するRonsonにはいつも感心する。

ただのルポではなく、理念を語る本でもなく、好奇心を十分満足させてくれる冒険娯楽ノンフィクションである。ただし、いつものRonsonの作品よりシリアスで、滑稽なシチュエーションはあるが、笑えるところは少ない。著者本人が読んでいるオーディオブックもお薦め。


(引用おわり)



こういうのはメモ的にエントリしようと思ってる「平易で嘘をつく人たち」関連でこういうのも関連してくる。



少し前の日記にも書いたようにおもうけど、こういうひとたち、ネットで必要以上に人を袋叩きの血祭りにあげることを楽しむ人達はちょっとサイコパスというか集団ヒステリーのようになってるのだと思う。当人たちは自制できてたり単にそのときのノリ-祭りで楽しんでるだけのつもりなのだろうけど、そもそもそういうものに楽しみを見出すことが前近代的で原始的というか、、「ガッチャマンクラウズ」あたりでいうと「サルども」ということになるのあろう。鈴木謙介「カーニバル化する」うんたらでまとめられてたけど。


そういうのも満員電車の痴漢と同じような現代的病なのかなとかおもうけど(満員電車の痴漢や、そういったたぐいのセクシズムをことさらに攻撃し批判するひとたち自身が似たような病を持ってるという入れ子構造がある)。もちろん、犯罪的な迷惑に対して必要最低限の「抵抗」「抗議」として仕方なく声を上げる人達もいるだろうけど。




人の中にはどこかしら悪の部分があって、それらは完全になくなることはないのだろうけど、それらに一定の傾向や偏りが生じると過剰が生じるのだろう。そして、それらは往々にして集団や組織によって促される。責任-自省は分散化され個別専門化された組織のなかで曖昧になっていく。そのなかで組織の倫理-空気のみが膨らんでいく。


なので、「この人は邪悪である」、という決め付けはびみょーなとこで、邪悪なものは状態としてあるとしても、そのひとの持続的な性質でもないのではないかと思う。善-ノーマル-悪のようなメーターがあって、それがそれぞれの場面で善や悪のほうに偏っていくだけで。


でも、そのなかでも「邪悪」なものの定義はあって、それが「平気で嘘をつく人たち」で示されていた。


平気で嘘をつく人たち、虚偽の状態にある人たちは悪のメーターが定常になってどの場面においても悪、虚偽の状態で過ごしてる人たちとなる。

彼らの行いや言動は彼らにとって自省のひつようのないふつーのことなので、そこに自省や反省、呵責は発生しない。いわゆるサイコパスと言われる人たちはそのメーターが悪の側にふり切って定常化してるひとたちということになる。



ところでRonsonの「So You've Been Publicly Shamed」ておもしろそうだけど邦訳でないのかな。

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αでもβでもなくΚブロガー「正直に本心を吐露すること自体は悪くない。だがそれをしてよいかよくないか、してよい相手かそうでないか、の違いは厳として存在する」
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