桜の季節

「桜舞う季節はなにかを祝福されているような気がして人々の気がはやるのかもしれない。王侯の道を花びらで祝福するというのはあるけど、それがなんでもない市井の人々にも平等に与えられる。あるいは、そういったもので心が踊るというのは、花びらを散らす / 花で祝福される、というのが原初的に人の気持ちを心地よくさせるものだからなのかも。原初的にというと語弊があるかもだけど、ある程度万人に共通するほどに」


バイトの終わりに桜の絨毯のような道を子供が嬉しそうにはねているのを見てそういうことをおもったり。あるいはこの季節というのはやはり一番人々がカメラシャッターを切っているよなあとか思ったことから。



桜は枝に成っているのを見るよりも散ったあとの花びら、あるいは舞い散る桜吹雪がうつくしいと以前から想っているのだけどさいきん東松照明の写真集を見てすこし考えが変わった。「ソメイヨシノが群れのように連なっている不気味さ / 違和感が良いのだよ」みたいなのがあるのは知っていたのでそういう面から桜の魅力を切り取ったものかと想っていたけれど、写真集を見てみるとそこで描かれている桜は群れというのでもなく、なにかボソッとした点々だった。ちょうど珊瑚のような。青空や壁、水面を背景に桜の点々が珊瑚のように手を延ばしている。特に青空に伸びようとするそれは青を手に入れようともがいているように見える。なにか禍々しいものが。あるいは、そういった禍々しさも含みつつ陽気なピンク色に祝福して擬態したものが桜ということかもしれない。


桜は写真におさめるのがむずかしい。

接写して花びらを中心に借景てきにとっていけば簡単なのだけど、たとえばわれわれが桜の名所的なところで桜の魅力を感じているときのような全体を写真として表現するのはむずかしい。

以前からそういったことは想っていたのだけど、東松のようなプロの写真家でもそのように想うものなのだなとあらためて。

そういった「むずかしさ」はおそらく写真というのが一定のフィクションをもっているからで、そのフィクション - 理想に対して桜は現実をそのままに返しやすい被写体なのだろう。なのでわれわれは桜を魅力的に写真として残そうとするときに一定のフィクションをそこで作り上げる。いわゆるハイパーリアル的なフィクション。

そういったものを踏まえた上でか、東松の写真集ではそういったフィクションが展開されておらず、市井の、日常の中のなんでもない桜が撮られて残されている。

なので、それらの桜はどこかボソボソとした点々のようなものとして表されがちになる。


巻末のあとがきで大島渚なんかはそういった桜を表して「近代日本の市井のありかたの象徴的な」みたいな説をぶっていたようにぼんやりと記憶。あるいは彼のテーマである「皇国主義・史観や国家主義に収奪されスポイルされがちな個人の実存が性や力を介した場で裏返る」といったものを背景になにかぶっていたような気がする。

まあよくある「桜は日本の心の象徴(散りゆく刹那美もふくめて)」みたいな三島イズムぽいのを意識した上で、それに直接に言及せず、かといって適当な着地点も見つけられなかったような文章だったけど。(たぶん大島はそこでもうちょっとエロス的な可能性と桜について耽美的に文章を展開すべきだった)



そんな面倒なことをいちいち言語化して想っているわけではないけどなんとなく片隅に残しつつ桜を見て写真に撮っている。そしてインスタグラムにちょこちょこあげたり。



今朝のジョギングではあらためて自分のジョギング環境の桜というのは田舎のあぜ道的な牧歌的な雰囲気があるものだなあ、と思った。


田んぼのあぜ道とか山肌に育った自然の桜。


地域の名所としてつくられ、整えられたようなそれではなく、自生的に生えてきたのを地元民が愛で、つかの間の休憩のよすがとしてありがたがってきたようなそういったもの。


けっきょく自分はそういったもののほうが楽なのかなあとかおもったり。まあ名所のソレはソレとして魅力があるのだろうけど。



今年も名所に行きそびれた。








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