ボルタンスキー展へ行ってきたよ

ついったーでひとが「そのとき思ったことを、次にまた思うかはわからないし」と言ってるのを見て日記しようと思ったのだった。簡単にでも。

あと30分後には習慣のサーキットトレーニングしときたいのであまり時間もない / 本来ならもっとゆったりとダラダラと寄り道のような日記を書きたいのだけど目的を決めて直線的に書き留めるだけならそんなに時間もかからなそう。こないだいったボルタンスキー展の感想とか。

ボルタンスキーは今回が初見で、特に予備知識もなく見に行った。界隈で「ボルタンいいよー(・∀・)いいよー」というのは垣間見てたのだけど見たこともなく特に調べることもなかった。

結論からいうと、見ておいてよかった。んでも直後の感想は「…600円くらいかなあ。。」というもの。直後、あるいは見ている途中での印象として。1600円の入場料に対して(自分的には)600円くらいの価値かなあというもの。それはボルタンスキーの作品が特によろしくないというわけではなく、アート系のものはだいたいにしてこんな感じだから。あるいは自分の金銭感覚によるもの。

でも、見終わってしばらく経った現在だともうちょっと価値が膨らんでる気がする。なにより最後に見たアニミタスとミステリオスの印象。それが自分のなかの心象のひとつとなって遺っている。遺りつづけていくんだろうなあ。。という予感がある。なんの映画か忘れたけど印象的な場面だけ記憶に遺っていくように。


予備知識なしで行ったのでそれぞれの作品を謎解き的に倒していく。いつもどおり、なにを表そうとしているものかだいたい理解したら「はい、次」と通り過ぎる。現代アート的なものをみるときはだいたいそういう風にしてる。それで一周回って全体のテーマを解釈しようと努め、そのキーになってると思われる作品をもう一度見に行く。あるいは自分の中で印象に残った / 残りそうな作品をもう一度見に行く。それでしばらくその作品をじーっと見る。


今回の展示の場合、最初にいわく有りげな暗いポートレートがズラッと並べられてて、それがだんだんと遺影の祭壇のように祀られていって、「なんだか『MONSTER』のようだな」とまず思った。浦沢直樹の『MONSTER』。遺影の顔やボルタンスキーという名前から東欧系を想ったからだろうけど。

しばらく進むとそれらの人への集団虐殺のようなものが行われた?と気づきユダヤ、ホロコースト関連の作品なのかなあ、と。あるいはソ連によるポーランド侵攻とか。

概ねその解釈がただしいことはそのあとの死霊たちのトンネルを通りつつ分かる。あるいはその先の剥ぎ取られた衣服によるボタ山から。

「…なるほど…これは重いな…」とこのあたりで小休止。ちょうどそこがアニミタスの投影の場所なので彼らの慰霊のためのものなのかとなんとなく。あるいは、人の世の諸行無常をはかなむような。怒りと悲しみを具体的な方向に出したものではなくもうちょっと人類全体の営み、歴史を儚むようなもの。

さっきから聞こえていたチリーン、チリーンという鈴の音はこれだったのだなと気づく。

陳腐で卑近な表現になるけど久保帯人『BLEACH』における清(すず)虫終式・閻魔蟋蟀のような。そういうゼロの世界。真っ白でなにもないキリングフィールドに墓のように風鈴が竿立てられその音だけが響く。それらはいつの間にか増えていき重なって鳴り響く。しかしそこにけたたましさはなく、その音の清やかさの余韻から却って空間の無が強調される。


そこからしばらく進むと今度はクジラの墓がある。パタゴニアかなにかの海岸に打ち上げられ白骨化したクジラと、そこから響く音のようものがミニョーンミニョーンと鳴り響く映像。チベットのホーミーを想わせる。骨から響く音、というかクジラの白骨に合わせて金属片で音を作ってるぽい。風を受けて鳴るように設置して。

映像自体は再現されたものなのでそれほどのインパクトはなかったけれど、それが置かれていた場所に自分がいることを想ってしばらく佇んでいた。


なるほど、すべてが終わった後の景色。スズムシの零式でさえも慰霊のもので、それらもすべて飲み込んだ悠久の時の流れのあとの景色として。


人類がいなくなってもなお地球は残り、なんらかのコミュニケーションをしようとするのか。



すべてを見終わった後に「けっきょくこれはなんだったのか?」と自分の中でそれなりに総括。ポートレートの配置は原爆資料館の展示と似てるけれど、現代アートになってる。逆にいうと原爆資料館の展示が現代アートになるということはどのような作品の流れや配置が必要なのかとしばらく想う。

「政治的メッセージなりなんなりのひとつのものにとらわれず解釈の多様性・多義性を保った普遍性をもつ」

ということだろうけど。

あいちトリエンナーレの例の展示のことを少し思いつつボルタンスキーをぐぐって美術手帖の記事を見る。


 私にも答えはありません。むしろ「答えを知っている」という人は危険だと思います。なぜならばそれを他人に強いろうとするからです。人間であるということは答えを探すということ。ユダヤ教では「赤ちゃんはすべての答えを持っている」と言われています。胎児はすべてを知っていますが、生まれると天使が来て、すべてを忘れてしまう。そして一生をかけて、そのお腹の中で知っていたことを思い出そうとするのです。この言い伝えーーすべての胎児がすべての知識を持っているという話が私は好きです。
 例えばイタリアやスペインなどの教会では、扉が開いてて、そこに入ると神父がおり、匂いと音があり、絵がかかってることもあります。私は信仰を持たないので、教会の儀式についてはわかりません。しかし、そこが「考えなければいけない場所」だということはわかります。だから教会に入って10分ほど座り、我々とはなんなのか、なぜここにいるのかを考える。そして外に出て、いつもの生活に戻るのです。
 このような場所には意味がある。美術館というものは、「新しい教会」なのだと思います。教会は考察する場所であり、美術館もそれに似ています。現在の権力者は教会こそ建てませんが、代わりに美術館を建てるようになりましたね。そのような場所は、社会に必要な場所なのです。自分の内面的な精神を取り戻し、(精神の)「泉」から何かを取り出すために必要な場所です。


この人とは作品以前に考えが同じだったのだなと思った。

すくなくともこの部分については



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