メシマズやら孤食やら
いまは阿古真理さんの「昭和の洋食 平成のカフェ飯」読んでるので結構この手の話題にはピクッとなる。
小林カツ代に栗原はるみ、料理研究家を通して見えてくる現代日本のカタチとは? 阿古真理氏トークイベント [T-SITE] http://top.tsite.jp/news/i/24384760/
この本はその時代を代表するメディアコンテンツを切り口に日本の家庭料理の変遷を追っている。そこでは家庭料理だけではなく生活環境やライフスタイルの変化がそれらに影響していることが分かる。つまり女性の問題であると同時に家族の問題でもあるわけだけど。
小林カツ代が日本に残してくれたもの 前編|新しい「古典」を読む|finalvent|cakes(ケイクス) https://cakes.mu/posts/5106
フェミニズムがわりとシカクシカクな言葉のやりとりだけ(ただしいのはわかるけど生活としてそれらが実践され染みこむのとは話は別)なところがあるように印象されるのに対して、料理と主婦という切り口はハビトゥス的で地味な説得力があるのだろうなあとかおもう。
具体的には牛肉エキスやコンソメなどができることにより主婦の労働時間が短縮され生活が豊かになったこととか。あるいはそれに準ずる家事環境の変化とか。
日本の家庭料理はもともとよほどの金持ちでなければみんな毎日同じものを食べていて、それは中世のごった煮的なものとは違ったのだろうけど、たとえば朝の連続テレビ小説「カーネーション」なんかでもでてたような鰯の煮付けみたいなのだった。家庭によって違うのだろうけど。
そういった庶民的なものに対して、金持ちは料理人を雇ったり、あるいは料理教室に通ったりして様々な料理を得て行った。それは単に自らの満足のためだけでもなくホームパーティーを開くための社交として必要だったというのもあったようだけど。
NHK「きょうの料理」に代表される主婦にレシピを伝えるコンテンツもはじめはこういった文脈に従い、上流階級のひとびとのきちんとした料理、みたいなのが帝国ホテルシェフやお金持ちの奥様から伝えられていった。
料理研究家や「料理を教える」みたいなのは当初そういったものだった。
小林カツ代が登場したのはそういった文脈からで、そういった文脈に対して小林は肉じゃがをはじめとしたもっと庶民的な料理を簡単に作れる術を伝えていった。
彼女が主婦ではなく料理研究家を名乗り、料理の内容としても「簡単だけどきちんとつくっているもの」を旨としたのは前時代の権威に対するものだったみたい。また、核家族時代で失われた「家庭の和食的なアジの作り方」を簡単に教えるためでもあった。
そこには女性の社会進出第一世代の矢面に立った女性たちの「主婦≠女性を馬鹿にするな」的な側面もあった。
それに対して栗原はるみはもはやそういう時代も過ぎた頃、敢えて「自分はひとりの主婦です」と名のれる頃にでてきた料理研究家だった。
これらの話は続編の「小林カツ代と栗原はるみ」にもっと詳しくあるようなのでそのうち読もう。小林カツ代な話も。
そういえば女性とかフェミうんたら関連だと「ゴーンガール」を見た。
サスペンス的な作りなのでめんどくさいなあって感じだったのだけど、去年ぐらいにこれが話題になったフェミ的なものというのはこの映画の前半部に集約されるのかなあ、とか。
↑のは読んでないんだけど、この映画のフェミ的な視点としては主人公の女性が抱えていた「わたしにニコニコセクシーかわいいおまえに都合の良いヲクサン(飯・炊事・セックス付き)を期待するな」という怒りで、「それが爆発した場合」っていう妄想物語なのかなあ、とか。なのでそのあとのサイコサスペンス的なものは全てふだん怒りや不満を抱えてる主婦が妄想したファンタジーなのかなあとおもいつつ見ていた。
物語というか、個々の内面や背景に踏み込めば、この主人公女性が抱えていた不満の元々のものは彼女の生育した家庭環境に依るのだろう。両親が作家とそのマネージメントかなんかで、娘をモデルにした作品で名を馳せた、けどそれによって娘は自身の少女時代を奪われた、みたいなの。
ふつーにゆるやかな育児放棄、もしくは無視であり、このへんの痛みや座りの悪さが後の彼女の性格に通じて行ったかなあとか。
なのでしっかり掘り下げるならそっちから掘り下げた物語が見たかったけど、まあそれやるとヒューマンドラマって感じになるのだろうしなあ。。
直接関係しないけど日本で子どもの孤食が「発見」されたのは1982年ごろということらしい(NHK特集『子どもたちの食卓-なぜひとりで食べるの』)。
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