「富士日記」より

今日は寝坊したのであまり積ん読/借りてる本を読み進められなかったなあとか想いつつ、まあこんな日があってもいいかあ/ゆるく行こう/これも読み進めないとなそういやということで精選女性随筆集の武田百合子を読んでみた。


富士日記がだいぶ収録されていてあらためて読む。


以前に読んだ時もそうだけど富士日記も自分的にはピンとこなくて、紹介文で川上弘美さんが紹介してるようには感じられないのだろうなあとか。世の中にはこの文章がとても合う人がいるのだと思う。多分自分は夫である武田泰淳のほうがあってるのかな。まあ未読なんだけど。


武田泰淳のほうの文章が主旋律としてあって、それを基本としつつもエキシビジョン的なものとして武田百合子のそれがあるというか、、武田百合子の文章、というか文にはそれほど内容ー情報量とかはないのだけど、なんか良い雰囲気があるよね、というのがこういったものの愉しみ方でそれは絵画や音楽の楽しみ方に似てるのかなとか。


武田泰淳の文、というか武田百合子による武田泰淳の武田百合子のあつかいにもちょっと表れていたけど、武田百合子は元々はカフェの女給で、文豪である武田泰淳のとこになにもしらないカフェの女給が嫁いだみたいな感じだったのだろう。そういった関係が基本的にあるので武田泰淳は「おまえは頭が悪いから」とことあるごとに言い、武田百合子も基本的にそれに同意してる。

ただ、それは世間一般の強圧的な力関係に基づいた馬鹿にした感じでもなくて、そこには武田百合子による武田泰淳への尊敬と武田泰淳による照れというか愛情というか、そういったものが見え隠れする。なので、武田百合子がそういった言葉に怒ることもあるのだけれど、それもそんなに深刻だったり長引くようなものでもない。


尊敬と愛情と信頼がそこにはある。



「富士日記」はピンと来ないとは言ったのだけれどこの文を読んだとき、このエッセイの魅力というか、かけがえのなさみたいなのが凝縮されてるように思った。


日記をつけなかった山の暮らしの日々には、どんなことがあったろう。いつの年とも同じように、雪が消え、ものの芽が吹き、桜が咲き、若葉となる。待ちかねていたように山へ来る。武田は日光浴をし、草を刈り、缶ビールを飲み、本を読んだりテレビをみた。七月に入ると嬉しそうに言った。「さあ、今年もうるさい大岡がやってくるぞ」「大岡のやつ、もう来てるかな。一寸行ってみてきてくれ」。大岡さんがしばらくみえないと「どうぞ遊びにきてくださいと言ってこい」などと―やっぱり、こんな風に暮らしていたのだ。
私は湖に遊びに行かなくなり、庭先の畑や門のまわりに夏咲く花ばかり作った。その熱心さを気ちがいじみていると武田は笑い呆れていたが、朝や夕暮れどき、ながい間花畑の中にしゃがみこんで、花に触ったり見惚れたりしてくれた。喜ぶ風を私に見せてくれた。
言いつのって、武田を震え上がるほど怒らせたり、暗い気分にさせたことがある。言いようのない眼付きに、私がおし黙ってしまったことがある。年々体の弱ってゆく人のそばで、沢山食べ、沢山しゃべり、大きな声で笑い、庭を駆け上がり駆け下り、気分の照り降りをそのままに暮らしていた丈夫な私は、何て粗野で鈍感な女だったろう。


全体の文章のイメージがつかなかったけどこの箇所でようやく「ハチミツとクローバー」(羽海野チカ)や山下和美(「不思議な少年」)的なものでイメージされた。



武田百合子は自重して自分の鈍感さを恥じていたけれど、おそらく武田泰淳はそのことによって救われていたのだろう。病を得る前から、そういった百合子の姿を見て一緒に暮らしていきたいと思ったのだと思う。





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