櫻嵐、桜吹雪を見る

きょうは狩りに行くつもりだったけど朝ニュース聞いてたら思ったより風が強くて原付きだと危なそうだから予定を変更、近場の日用品買い物と図書館行く程度で済ませた。あとは気になってた箇所の花見。風が強いので桜吹雪が見られる/包まれるようなので。


最初は向こう岸のショッピングセンター(SC)の近くの川原の桜並木にいくつもりだったけど、通り道の神社脇の桜が舞い散る様を見てたら「もうこれでいいかなあ。。」ってなった。



桜が舞い散る様、あるいは風に桜の花びらが渦巻くさまを撮りたかったのだけどiPhoneのカメラだと無理っぽかったのでこのぐらいで。はらはらと散る桜の様子を見て「桜というのは散るさまこそうつくしいのだ」って誰か言ってたなあとか思ふ。

写真にしてみるとあらためて思うけど桜が盛々と成っている様というのはある種の過剰性があって、そういうのは六義園の桜とか、名所の桜が過剰に爛熟→桜色で一体を染め上げてる様に顕著なのだろうけど、そうなってくるともう花というよりもなにかほかの生き物/モノのようにも思える。たとえば珊瑚とか。

こうしてみると上の写真にもそういう面が少し表れたかなあとか思った。


三島とかだとそういう過剰をビザールな美、あるいは様式化した美として死とともに語り「日本人の美意識」とするのかもだけど、自分はそういうのはなあ。。(様式としてはおもしろいのだけど)


そのあと図書館に行ってドンキとか茶道具店で買い物して帰途につく。


楽しみの一つにしていた用水路の桜が思ったよりも見事に咲いて、そして散っていて「ああ、、もう目黒川とかいかなくてもよかったなあ。。やっぱ」とかおもう。


鯉の群れが泳いでいて花びらを食べようとしていたのを撮るもうまく反映されなかったのでそれは諦めた。

川の桜としてはこういう写真が満点なのだろうけど

機材もないしそこまでするつもりもない。


三島のあれと同じでこういうのは形式化-様式化した美ということでそれはそれとしてきれいなのだけど、自分のリアリティを離れた美の幻想にマトリックスされてる感じで、なんかなあって。まあ人の視覚はそういった幻想によってなってるともいえるのだからそれはそれでいいのかなあとも思うけど。


朝にゴミ捨ていったついでに椿や桃を刈ってきて活ける。


感覚的にはこのとき聴いてたこんな感じ

椿を入れるとなんかガチャッとなるので洗面台に分ける。

白黒で赤を感じるような、そして葉っぱの光沢と緑のやわかみを感じるようなものを撮りたかったんだけど、やはりiPhoneだと無理だな。



明日は横浜美術館が無料なようなので石田尚志さんの展示を見に行く(参照1参照2)。ついでにすこし歩いてみなとみらいから海を見ようかとも思うけどできれば浜から春の海をしたいのでなんだったら鎌倉まで行こうかとも思う。江ノ電もあるし。



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