「空中庭園」

「重力と恩寵」をナイトキャップにもう寝ようかと思ってたのだけど  Fjordne の曲をきいていたら朝に見終わった「空中庭園」の感覚を思い出して日記したいなあと思ったので日記を。明日でもいいかあと思ったのだけどすぐに済ますので今日でもいい。


角田光代が原作で監督は

不幸にして覚せい剤所持で捕まってからキャリアがとまったぽいけど、映画化された「空中庭園」の印象は園子温を想わせるものだったのでうまくいっていたらもっといろいろあったのかもしれない。これから、ということもあるだろけど。

「それは原作が良かったからだよ」というのもあるだろうけど映画化する際の演出、切り取り方、見せ方というのもあるだろうし。


角田光代って一貫してこういうテーマだったかなあとウィキペディアを見るに


角田光代 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E7%94%B0%E5%85%89%E4%BB%A3


そういうことではあるみたい。少なくとも「空中庭園」は代表作らしい。



(※ウィキペディアよりあらすじ引用)

母親は「この家に隠し事はない」と常々言っている。しかし、彼女自身が隠し事を持っていた。それどころか、夫婦のなれそめ自体に彼女のたくらみがあった。しかし、彼女は「隠し事がない」理想の家庭を築きたいと願っていたのだ。それはなぜなのか。

性格にややちゃらんぽらんなところがあり、性懲りもなく浮気をしている父親は、数年前から妻に性交渉を拒否されている一方で、外に作った女に無邪気に甘えている。 そんな男を、愛人は冷ややかに見ている。結婚なんてまっぴらごめんだ。しかし、なぜか、女は男の家を覗いてみたくなる。 そして、弟の家庭教師になって、その家に入り込む。

登場人物それぞれが、家族について、自分の存在の根本部分について、はっきりとは意識しかねるけれど、不安を感じている。 彼らが愛し、憎み、無関心ではいられない家族とは何だろう。空中庭園のごとき、不安で、だけれども、清潔で美しい佇まいの家族の肖像を描く。


(引用おわり)


いわゆる「家族ゲーム」「擬似家族」的な題材で、それがぶっちゃけられるのが中盤から後半にかけてなんだけど、そのときの中心点は「家族ゲーム」のように「家庭教師という外からのまれびとを通じて閉じたニセの平和が崩されていって」みたいな感じではない。

「母親が団地という人造・平和空間で家族ごっこを営んでいった、それを象徴するように団地のベランダで自慢のガーデンを箱庭していた」、というのは現代の『家族』が抱える問題につながるので近代家族全体の問題かなという感じでもあるのだけど、

この物語においてそこでの中心はあくまで母親で、母-こういった女性の空虚さが主題となっている。母親の幼少期の思い出、「いじめられていて孤立していて」とかは母親の空虚さとドラマ的な発露を生み出すために付けられた設定ともいえる。


んでも、そこからの「わたしは学生時代からずっとこの家族をつくり上げるために綿密に計画を練っていた」「基礎体温もその頃からはかっていたし、それを利用して子どもも宿し、できちゃった、から逃げない男を狙い定めた」というサイコさん的なのは「ゴーン・ガール」も想わせるし、サイコな人たちが織り成すスラップスティックな後編は園子温も想わせる。

映画では後者の、園子温的な切り取り方をして「園子温だったらどう描いただろう?黒沢清だったらもうちょっといろいろ広げて投げっぱなしで終わるかな」とか思わせるのだけど、ウィキペディアで角田光代の作品の傾向を見るともっと閑かな、都会の女性の孤独、みたいな主題だったのだろう。



十分に幸せであるはずなのになぜか、どこか欠けていて満たされないような、そういう実存の希薄。



空中庭園というモティーフはそういった主題によく合っていた。



映画後半にも出てきたように「空中庭園」の意味するところ、連想の素としては団地のガーデニングだけではなくデパートの屋上遊技場もかかっていたのかもしれない。


平成になってもはや希少となった、昭和の「家族」の名残を象徴するもの。団地同様。





映画は最後に屋上遊技場での回想シーン、母親の幼い日の記憶を中心として終わる。


「母はわたしを愛していなかったのではないか?」


主人公の中にあったわだかまりは最後に屋上遊技場での母との記憶が自分の記憶の改鼠によって歪められていた、おぼろげになっていたことへの気付きをもって終わる。

「母は特に私を疎かにしてはいなかった(すくなくともそのときはふつうの母娘だった)」


そのことはおそらくは父親の葬儀の際に垣間見た母親の顔の記憶の誤謬とも繋がる(母はあの時笑っていたのではなく泣いていたのだ)。


そこには父親の姿が不在で、おそらく防衛機制的な記憶の改鼠にはそのことも関係していたのだろう。




あるいは地味に、母と娘の確執。エレクトラ・コンプレックス。そんな自分が母になっていく、家族を持っていく、ということ。


「八日目の蝉」にしても「紙の月」にしても、そういった女性たちのことを描いているのだろう。







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αでもβでもなくΚブロガー「正直に本心を吐露すること自体は悪くない。だがそれをしてよいかよくないか、してよい相手かそうでないか、の違いは厳として存在する」
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