やはり海へ行こう/松本次郎-岡崎京子/宇野千代、大庭みな子

松浦寿輝詩集、しばらくは買えないなあ。値段的に、すぐに買ってもいいけどほかのも詰まってるし、特に絶版な気配もないしなあ、とかおもいつつ、いちお解説を読むためにきょうの返却期限を伸ばしたので解説を読む。

結果的に「( ^ω^)・・・なにいってんだそれ?」みたいな感じだったけど。まあテキスト自体が多様な解釈を許す形になってるのだし自分のが確実に当たりってわけでもないだろうからそれはそれでいいか、とか。

詩集読んだ感想日記を書いてよかったのはフリージアを思い出せたことと関連して「冬の本」の生け花/かけじくをつくって「やはり海に行きたい/行くべき」気持ちを再確認したこと。明日できるだけ海に行こうと思う。

noteでやってるウェブ掛け軸はTumblrでなんとなく気になった画像を中心にその日の気分とか心に残ったことで編んでいくので素材的には偶有的なものでブリコラージュなのだけど、素材を選んで編集する段階でそれなりに時間がかかってる。「選ぶ」「保存する」で10から15分ぐらい、「自分なりのストーリーを作るために配列を変える」で30から40分ぐらい。あとは出典があれば出典をつける作業で15分ぐらい。

なので、ふつーにテキストだけの日記書いたほうが時間かからなかったりもするんだけど、まあこういうの好きなのでそれはそれで良い。以前はQuote of the dayという外国人の名言を集めてその日の4つの名言を配信する英語メルマガを貯めて、気分に合わせてブリコラージュしていた。それが結果的にブログのエピグラフ的なものに通じてるわけだけど。


「フリージアを思い出せてよかった」関連で。著者である松本次郎をアマゾンでたどったらけっこう作品を出していて短篇集を安価に手に入れることができたのでよかった。

松本次郎の空気感、実存感覚というのは自分的には松浦寿輝の精神が病む直前、あるいは、病みつつも生きてる現代人の感覚なのだけど、「松浦寿輝みたい」「フリージアみたい」といっても読んだことない人には通じないだろうから別の言葉でいうと「岡崎京子みたい」ということになるか。特に岡崎京子「リバーズエッジ」以降のそれ。

もともと松浦寿輝を読んでみようと思ったのは岡崎京子展への予習として岡崎京子の最後の作品寸前の様子についての記述をみていたら「松浦寿輝のいくつかの詩や作品をモデルにすれば描けるかもしれない」と岡崎が言っていたから。


岡崎京子の時代: muse-A-muse 2nd http://muse-a-muse.seesaa.net/article/414413825.html


結果的に、「うたかたの日々」の空気感のほうがより近かったかもしれない。あるいはやはり松本次郎「フリージア」の。

なので、岡崎が描こうとして描けなかったもののエッセンスが松本次郎を通じて見られるように自分的には思う。


「女として描くことの限界」みたいなのが頭をよぎるけど、「女として」というか岡崎京子的な描き方、キャラや構図、構成、テンポだとどうしても岡崎的なノリが付加されて、それはそれで別の意味・味わいをもたらしていたのかなあとか。「限界」ということでもなく。


モデルみたいな体型のきれいでつるつるした女の子のなかにも血にまみれた内臓とヴァギナが埋まっていて、でも、女の子たちは「血なんか流してないわよ♪」と平然とした顔で日々を送ることが当然とされ、エチケットとされたりもする(ex.「生理の話なんかするなよなぁ。。」)。

そういった子たちがきれいにする努力とそれに対する気持ち、それを屈託や葛藤を抱えずにプロデュースして日々をポップなノリで流していっていること。それと並行して松浦寿輝的な孤独と疎外と静謐な無音と死を彼女たちも抱えていたこと。彼女たちの平坦な戦場がそこにあること。それらが岡崎京子というメディアを通じて発信された意義を想う。


「それは女性学的にどう考えられるかしら?」と並行して読んでいた宇野千代/大庭みな子エッセイ集と対照に。


両者とも主要作品は未だ読んでないしほとんど知らなかったので今回エッセイを通じて知ることで却って生活的な内面がかいま見えたようにおもった。あるいは生育史的なそれ。


宇野さんは恋多き女、ほがらかな女性、女を楽しむ女性みたいに世間的に捉えられてるぽい。たとえばこういう切り取り方

この話は名言的に、あるいは宇野のキャラてきにこの部分だけ切り取られ、「宇野千代のような女性は社会ありがてえしてポジティブシンキングなのだ」て印象に構成されているけれど、その前段として「ネガティブなことばかり考える人がいるけれど」があり、そのさらに前には「わたしは自分のことを即物的・動物的だと思う」があった。

宇野は自身が恋愛に際して葛藤や屈託、迷いのような時間がなく即、恋愛、あるいは肉体関係に至ること、あるいは、別れる際に愁嘆場もなくあっさりと別れることをして「自分でも即物的、動物的だと思う」といっていた。

宇野がそのようになったのは育った家庭環境に依るぽい。宇野の家は造り酒屋であったが、博打好きの父親が働きもせず借金ばかりこさえ、宇野千代やその母親に辛く当たっていた。宇野が主に育てられたのは二人目の母親、つまり継母だったわけだけど、そういった家庭環境から宇野は早くして人に甘えるということをしなくなった。彼女が別れの際にもゴネない、男に過度に何かを期待しないのはそういったところに因るらしい。あるいは動物的、即物的にすぐに気分が切り替わるのも。彼女なりの生存適応でありリアリスティックな人生観、人間に対する認識が形成されていたからだろう。

結果的にその場その場の生活、小さなハードルを乗り越えることには眼は行くけれど、ほかの作家や他人がやっているような大きな視点、浪漫のようなものを持つことはなかった。浪漫はあったかもしれないけど、幻想が生活に先立つというようなことがなかったぽい。それは恋愛幻想でも同じ。なのであっさりと寝て、あっさりと別れた。

あるいは「○○みたいになりたい」という目の前の欲望を対照にした目標設定はするものの、ついぞ長期的な視野にたつことはなかった。すくなくとも若いうちは。


自分みたいに幻想が先にドライブして生活が後になってしまいがちの人間からするとそういったリアリズムのほうが見習うべきところが大きいように思うけど、まあそこは置いておいて。


とりあえず宇野千代というひとは世間一般で想われてるようなポジティブ恋多き女みたいな感じでもなかったぽい。なのでそのうち彼女の代表作「おはん」も読んでみようかと思う。


でも、それでいうと大庭みな子さんのほうが自分にはフィットしてたようだからこちらのほうが先になるだろうけど。


現代のネット界隈で視られるフェミニズム的な提言、たとえば「主婦は家の中に閉じ込められ、育児の奴隷、あるいはそれを特権にしアイデンティファイするだけではなく、たまには外の世界、違う自分を持ったほうが良い。そのために生活をアウトソースする工夫もしよう」みたいなのはあの時代に既にして彼女がしていた。


そういう彼女であるから女性学的にそういった提言の先にあるものも見えることが期待される。たとえば母-娘の関係とかも。女性としての老いの着陸の仕方とか。

それとは別に彼女が女学生時に原爆時に市内に救援のために動員され、それが彼女の一生を決めていく契機になったこと(「地獄の配膳」)、津田塾大学を代表する津田女であり、津田梅子の評論も書いていることなどからも所縁を感じる。

なのでこちらはじっくりと読んでいきたいと思う。こうの史代さんともども。(近藤ようこさんの同文脈の近作も気になる)。


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