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義母と私の話

義母が亡くなった。
最初に覚悟をしてから、もうすぐ5年が経とうとしていた。

それでも覚悟と気持ちは別のところにあるらしく、この寂しさをどこかに追い払うことができなさそうなので、少しだけ義母と私の話をします。

家族が亡くなる話です、そんなに暗い話にはならないつもりですが、読みたくない方はここで読むのをやめてください。
いろいろな嫁姑関係がありますが、仲の良かった義母との話です。
また、本記事は家族の闘病や介護への正解を記すものではありません。あまり綺麗な文章にもならないと思います。私から見えた義母についてお話しするだけです。少し気持ちの整理をさせてください。



嫁と姑という関係は6年ほどだったが、私たち夫婦は付き合いが長いので、初めて「彼氏のお母さん」として会ってからはもう15年以上になる。

最初はきっと暗い子だと思われていた。
私は人見知りだし、私よりも義母の方がずっと明るくて、かわいいものが好きだった。
LINEでも文章が長いのも、かわいい絵文字でいっぱいなのも義母の方。
そもそもあんまり「かわいげ」というものがない私は、義母にとってはあまりかわいい嫁になれなさそうだと、最初から思っていた。

そこで私がとった作戦は「嫁ではなく、娘になる」ということだった。
息子たちを心から愛している義母だったが、本当は娘も欲しかったと聞いていたので、
「娘になれば勝ちだ!」と思った私は、
誕生日や母の日には洋服やなどネイル用品など女性っぽいものを贈り、夫や義兄があまり付き合ってあげないであろうお店でのショッピングを楽しむようにしていた。

義母に気に入られるための作戦と言ってしまえばそれまでだが、無理をしていたわけではない。
「息子を奪った暗い女」から「家族」になるために必要な過程だった。

結局その作戦がどうだったかは分からないが、義母から私への誕生日プレゼントも調理家電やドライヤーだったので、少しは「女の子」が身内にいる楽しみを味わえてもらえていたら嬉しい。

義母の死を初めて覚悟したのは5年前、大きな病気で入院・手術をした時だった。
手術中に義父と夫と過ごした、不安で充満していた窓ひとつない待合室のことを、私はきっと一生忘れない。
12時間に及ぶ大手術は成功。
手術を終えた義母に集中治療室で翌日会った時には、涙が止まらなかった。
一番辛いはずなのに、できるだけ笑顔でいようとする義母は、大手術を乗り越えた戦士の顔をしていた。


しかし、義母は声帯や気管を失っていた。

声帯を失った義母とコミュニケーションをとるのは、結構大変だった。
最初は口パクと身振り手振りだけではなかなか読み取れず、義母自身も話すのに疲れてしまっていたと思う。
おしゃべりが大好きだった義母にとって、それがどれだけ辛いことだったか、私には想像もつかない。

そもそも、義母が患った病気は、一年の生存率が5〜20%ほどだった。というか、9割の人が2,3ヶ月で亡くなってしまう段階まで病気が進行していた。
家族は覚悟をしていた。
その覚悟が5年続くとは、もしかしたら思っていなかったかもしれない。

5年間は、心配と安堵が順番に顔を出した。体に漬物石があるのかと思うような重い気持ちの日もあれば、梅雨の晴れ間のように光がさすこともあった。
「新しい治療方法が効いてる!」「病気がほとんど消えちゃった!」と何度も快気祝いをした。快気祝いなんて何度したって良い。

闘病の末いよいよ緩和ケアしか手段がないとなったとき義母は「1年で死んじゃう病気なのに、5年もボーナスタイムがもらえて本当に幸せだった」と言っていた。
私はそれを聞いてものすごく寂しくなったけど、一度いろんな覚悟をした義母の本心だったのだと思う。

ロケットの打上げを見に、北海道にきたこともあった。
TENGAロケットの打上げ成功も見た。
当時開発マネージャーをしていた夫は「母に見せることができて良かった」と泣いていた。
なんて優しいやつなんだ、と思った。
夫のこの優しさを育てたのは紛れもなく義母で、
私は嫁として、夫に対して、義母と同じくらいの愛情を注がなければと思っていたのだけれど、
本当は間接的に私が義母の愛情を受け取っているのだった。
義母が愛情たっぷりに育てた人と結婚して良かったと、そう思っている。

義母は私にも優しかった。
一番ありがたかったのが、なかなか子どもができずに不妊治療をしている私を絶対に責めたり急かしたりしなかったこと。
自分が母親になれないことよりも、夫を父親にしてあげられないことと、義父母に孫を見せてあげられないことがつらい私にとって、義母が不妊治療を理解してくれていることが何よりの救いだった。
義母に孫を会わせてあげられなかったことだけが、本当は心残りだ。

私の身体に不具合がなかったら(不妊が不具合ではないことはわかっていますが、自分のことなのであえてそう言わせてください)、
もっと早くから治療を始めていれば、
もっと健康に気を使った生活を送っていれば。
こればっかりは仕方のないことと分かっているけれど、私は私の人生でベストを尽くしているとは言えないので、どうしても悔いが残る。

私はずっと後悔すると思うが、きっと義母は「気にするな」と言ってくれる気がする。

さいごの1週間は家族総出で介護をし、義父と夫と看取ることができた。
家族の時間を過ごせたことを、義母が幸せに感じていたら嬉しい。
そういった意味で「やり残したこと」はなく、長く病に苦しんだ義母が痛みから解放されて、あちらで大好きなフラダンスを踊りまくっているだろうと、少しほっとした気持ちですらある。

明るくて、楽しいことが大好き。
おしゃべりも大好き。
かわいい雑貨も大好き、お気に入りはフライングタイガー。
ネイルはいつもビビットカラー。
髪の毛も超ビビットカラー。
お魚よりお肉が好き。
フラダンスが生き甲斐。
自分のことより家族のことを心配する。
息子よりも嫁の私の味方をする時もある。
自分はお酒が飲めないのに、家飲みでお客さんをもてなすのが大好き。
新しい調理家電を買っては、すぐに飽きてしまう。
写真のときの笑顔が上手。
不思議と人が集まる。
そんな愛しい人だった。

私は義母にとって家族になれていたのか、それは結局わからない。
でも私は義母を自分の家族だと思っていた。
タイプは全然違うけれど、私は義母が好きだった。

これは余談だが、私はどんな占いを見ても必ず「家族想い」と書いてある。占いというものを全面的に信じているわけではないが、その部分は当たっている。
私は一度身内と思うと、無償の愛を注ぐ自信がある。

義母は、ずっと私の家族。
きっと私はこれから、夫の明るさと優しさの中に義母を感じて生きていくのだろう。
さいごまで頑張ったおかあさん、私はあなたが愛情いっぱいに育てた人と結婚して良かったです。

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