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記憶の箱庭(My Box garden)・・・小学校編

●手違いで記事が削除されていたので、再度投稿します。
2023年6月8日
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吉岡秀隆主演の映画「ALWAYS 三丁目の夕日」’64は、1964年のオリンピック開催年の東京都港区愛宕?で暮らす人達の人情ドラマだった。
 映画より少し後、1968年の九州の田舎町で私の少年期のドラマが始まる。
 我が家にも次々と家電製品が持ち込まれ、食生活も少しずつ豊かになっていく昭和時代の思い出を手繰ってみた。
2022年3月31日

◯小学校編(全87話)  

1.一列に並んで 

 1年1組になった。入学式のことは全く覚えていない。
 小学生としても最も古い記憶は,みんなで中庭に整列して,校内オリエンテーションに出かけるシーンだ。担任の先生が1組の男子を一列に並ばせた。それまでと同じ並び順で並ぼうとしたら,突然,後ろの子が「おれの位置はここだ。」というようなことを言って強引に僕の前に割って入った。
 二人で腕の引っ張り合いをしたけれど,負けてしまったぼくは,助けを求めて担任の先生を目で追ったが、その時、先生は他の組の先生と打合せをしていて期待に応えてもらえずに,それが既成事実になった。嫌な同級生に出会った最初の記憶である。
 小学校最初の思い出がこれとは、なんとも切ない気がするが、入学式の記憶が全くなくて、本当にこれが思い出せる最初の記憶なのだから仕方ない。

2.かたつむり

 「明日,理科の授業で使うカタツムリを捕まえておいで。」と先生が言われた。当時はどの家も庭があるのが一般的で、池のある家も多かった。今は、自家用車の駐車場に取って代わられたが、庭木や花を楽しむ風情があった。だから、カタツムリはそこら中にいて容易に捕まえることができたのだ。
 翌日、庭で捕まえた大きなカツムリを虫かごに入れて学校に行った。
 その日は、お父さんお母さんが見守る中での授業参観だった。理科の時間にカタツムリを観察をして、最後に先生が「さあ、角材の上を渡らせみよう。」と言われた。
 みんなガヤガヤ椅子から立ち上がって、各々ケースからカタツムリを取りだした。僕もカタツムリを掴んで角材の上に乗せようとした瞬間、指に力が入りすぎて「グシュ」と殻が潰れた。僕の手から落ちた可哀想なカタツムリは、ケースの中でぐるぐると身悶えた。
 廊下の窓が取り払われて、授業参観のお母さん達が子供達の様子を眺めている、
同級生がカタツムリを角材の上に乗せて歓声をあげている。それを眺めるしかなくて,その時間がとてもとても長く思えた。

3.六月灯

 1年生の夏に、母ちゃんが弟とお揃いの浴衣を縫って着せてくれた。僕はブルーの、弟は鶯色のポリエステル素材のふわっとした帯を巻いて、下駄を履いて地元の夏祭り『六月灯』に行った。
 浴衣は年々体が大きくなったので、小学3年生頃まで着ていたと思う。
 照明に照らされた通りは賑やかで、手作りの灯籠がいくつもあった。
 灯籠は、たくさんのテーマがあって、相撲取りの絵やら、巨人の星、おばけのQ太郎、ウルトラマンなどで、大人が描いた精巧なものや中高生が描いたそれと分かる絵が色鮮やかに和紙に描かれ、大きなものは畳2枚ほどのものもあった。
 たくさんの夜店が出て、綿菓子、セルロイドのお面、金魚、おもちゃが売られていいる通りを、家族5人で何度も行ったり来たりして、気に入った物を1つ選んで買ってもらうのが嬉しかった。
 覚えているのは、ウルトラマンのお面、カエルの足がピンと伸びて泳ぐおもちゃ、25の数字を順に並べるスライドバズル。

4.金魚

 2年生の時だった。教室で飼っている金魚がお腹を上にして水槽に浮かんだ。授業中に先生がそれを見つけて網で金魚をすくい上げた。僕たちは椅子から立ち上がって周りを囲んでその様子を見ていた。
 その時,先生が僕に「両手を出して。」と言った。言われるままに両手を出した途端,先生は僕の手に金魚をひょいと置いて,「外の花壇の脇に埋めておいで。」と言った。
 びっくりした。金魚を触ることなど思っていなかったのに,突然,死んだ金魚が僕の体に触れたのだから。金魚の硬直が僕の体に移ったような緊張感が僕の体を巡った。僕は1階の教室からの2、3段の階段を降りて、コチコチの体で直ぐ脇の花壇にスコップで穴を掘って埋めた。


5.土の山

 校舎の中庭に大量に土が運び込まれて,二つの大きな山ができた。ダンプトラック何台分だったのだろうか。高さ4メーターくらいの山が出現したのだった。
 その日から,休み時間になると,みんなで土の小山に駆け上がったり,土をけづって砂遊びに熱中した。
 1ケ月くらい経った。たくさんの上級生が体操着で集まって来た。先生の号令でそのコチコチに踏み固められた小山を上の方からスコップや鍬で削って、竹で編んだモップの上に土を載せて運び出す作業が始まった。運動場に土を入れて整備するための土だったのだ。蟻の行列が砂糖の山をたちまち巣に運び去るのと同じように、ほどなくして,二つの山は無くなった。
 当時の小学生は,家の手伝いをさせらていたので,こんな作業はどうってことなかった。今の子供達にはとてもさせられない作業だろう。6年生になった時に,この砂運び作業が僕らにも回ってきた。


6.大の巨人ファン

 同級生にアリマくんがいた。彼はクラスの中で背丈が一番低い子だった。大の巨人ファンで、前日の試合のスコア表とピッチャーの被安打と三振数、バッターの安打数と打率が書かれた新聞の切り抜きを学校に持って来て、「昨日の試合は〇〇がよかった、△△がダメだった。」とみんなに語るのだ。周囲はよく分からないまま、ただ聞かされた。
 テレビは夕方のゴールデンタイムに野球の実況中継が始まったばかりで、野球好きの彼は野球の魅力を伝えたかったのだろう。それにしても、朝早くから新聞の切り出しをしてくるなんて、なんて激レアな小学生だったのだろう。

7.アポロ11号

 月に向かって友人ロケットが打ち上げられ、初めて月に人が降り立つというので、新聞やテレビはその話題で大ニュースになった。小学2年生の時だ。
 そして、いよいよアポロ11号が月に降り立つ日、その日は夏休みに入って直ぐの日だった。
 1969年7月21日。小学校の校庭にに天体望遠鏡が準備され、たくさんの児童と大人たちが校庭いっぱいに集まった。代わりばんこに、望遠鏡を覗き込み、月の表面にアポロ11号が見えないものかと探した。
 午後9時頃まで学校の校庭にいて、それから家に帰ってテレビの生中継を親子でテレビにかじりついて見た。夜11時頃だった。スローモーションを見るかのように月面を歩く宇宙服を着た人間を見た。それが、あの遠く離れた月の世界で起こっていることなんだと思うとワクワクして素晴らしいと思った。そしてこんなことのできるアメリカって国はすごい国だと思った。 

8.新しい体育館

 古い木造の講堂は,ぼくが2年生の頃解体されて,3年生の時に新しい体育館ができた。木造の講堂のことはあまり覚えていないが、木の床がボコボコしていて、外壁の板に節穴があったのを覚えている。
 新しい体育館の床はピカピカでツルツルだった。天井から吊り下がっている照明は、丸い電球ではなくてスイッチを入れると徐々に明るくなるタイプの電燈が使われていた。ここに本当の2千人の児童全員が入って、校長先生の話を聞いていたのだろうか?どうもはっきりしない。

9.サーカスの転校生

 先生が転校生の紹介をした。「〇〇君です。二週間だけですが一緒に勉強しましょう。」と変な紹介だった。彼は、サーカスの子だという。だから、街でサーカスがある間だけ、そのこの学校に通うということだった。外では、彼の妹が花壇でチョウを追っかけていた。
 その頃、毎年のように街にサーカスがやって来て、街で一番大きな公園にカラフルなテントを張っていた。一度だけ父ちゃんと弟と3人で一緒にサーカスを観に行った記憶がある。空中ブランコとか象の曲芸、オートバイ、道化師のピエロ。初めて観るサーカスの世界は、とても華やかで別世界だった。
 その男の子の出身はどこだったのだろう?言葉も違っていた。本当に短い期間だったので、教科書を二人の机の真ん中において勉強したことしか覚えていない。
 

10.ニワトリ

 3年生の頃、父ちゃんと二人で田舎のばあちゃんの家に行って、雌鳥2羽をもらって来た。段ボールに鶏を入れて、それを大きな風呂敷で包んでバスに乗った。そして汽車に乗り、さらにもう一度バスに乗って我が家に連れて来た。
 2羽の雌鳥は竹で作られた鶏小屋に入れられた。餌は菜葉、大根の葉と貝殻。貝殻は卵の殻を作るのに必要だった。
 当時の卵は貴重品で、値段も高かったので、家で玉を食べられることは幸せだった。
 毎朝、起きると鶏小屋に卵を見に行く。生み落とされた卵は傾斜がついた床を転がって小屋の手前の溝に止まっているので、鶏のクチバシで突かれないように注意して取ってくる。たまに、卵を産まない日があったが、だいたい毎日卵が食べられるようになった。
 しばらくして、雄鶏が連れて来られた。家の裏に父ちゃんが薄板で囲いをして、砂を入れた箱を作った。すると、めんどりが卵を抱いてうずくまるようなった。僕たちは、ヒヨコが生まれると聞いて、何度もその様子を見にいって、まだか、まだかと心待ちにしていた。
 孵化した卵から7匹くらいのひよこが生まれた。ひよこは真っ黄色で、母鶏の羽の下に隠れていたが、しばらくすると母鶏の後をよちよちと歩くようになった。 
 近寄ったら母鶏から突っつかれるので、歩くヒヨコを家の中の吐き出し窓に頭をくっつけて飽きもしないで眺めていた。本当に可愛らしかたのだから。
 その鶏もいつの間にかいなくなった。どうしてだかよく覚えていない。数が増えすぎて手に負えなくなったのかもしれない。ほんの短い期間の出来事だった。

11.ロケット発射場

 早朝、父ちゃんと二人で観光バスに乗った。目的地は、大隅半島の最南端、内之浦のロケット発射場。バスはこの後、桜島フェリーに乗って、延々と走り続けた。
 高速道路もなかった時代で、道路整備もまだまだこれからという時代だったから、内之浦まではずいぶん遠かった。
 発射場は東京大学の宇宙観測所で、我が国初の人口衛生「おおすみ」が1970年(昭和45年)に打ち上げられている。観光バスに乗ったのは、これより少し前だったようだ。
 見上げるほど高い発射台と横たわる大きなロケットを見て、西駅に戻って来たのは午後7時くらいで、駅の駐車場が真っ暗だったのを覚えている。

12.大阪のおじさんへの手紙

 国語の時間に、手紙の書き方を習った。そして、次の時間までに「手紙を書く人を決めておいで。」先生から言われた。
 手紙を出すには少し離れた人ということになるが、ほとんどの親戚は割と近くに住んでいたので、母ちゃんの長兄の大阪のおじさんに手紙を書くことにした。おじさんの家には、ついこの間、父ちゃんと幼稚園児の弟が列車に乗って大阪に遊びに行ったばかりであった。
 小学生が初めて書いた手紙である。中身は、他愛のないものだったろう。ただ、最後の「さようなら。」というくだりの前に「いつか遊びに行きます。」と書いた。
 そして、先生がクラス全員分の手紙を集めて投函した。
 数日して大阪のおじさんから手紙があった。「いつ、遊びにくるのか?」
 すぐに行くつもりはなかったから、全く想定外の展開だった。でもおじさんは、直ぐに来るものと受け取ったらしい。だから、おじさんに悪いことをしたなと、とても後ろめたく感じたのを覚えている。
 

13.カエル事件

 日曜日に自転車で通りかかると,同じクラス友達2人が空に向かって何かを投げていた。何をしているのかと近づくと,一人が手に握ったカエルを見せて空高く放り投げた。落ちてきたカエルがぺしゃんこになる遊びをしていたのだ。
 さらに,爆竹を取り出してカエルのお尻に差し込むと火をつけた。「可哀想だろ。やめろよ。」と言っても聞かなかった。
 僕は自転車を漕いでその場を離れた。バンと後ろの方で音がした。彼らはゲラゲラと笑っていた。僕には許せない遊びだった。

14.忘れ物

 よく忘れ物をした。忘れ物をして先生に叱られるのが嫌で、昼休み時間に家に走って戻った。忘れ物の多くは,体操着とか音楽で使う笛だったと思う。
 我が家は小学校からおよそ300mの距離にあったが、坂の上にあるので,急な坂を上るのが大変だった。
 給食を食べ終わると直ぐに裏門を抜け出して,家まで走った。坂を駆け上がると息がゼイゼイした。
 給食の後は掃除の時間だったから、そのまま戻れば門の近くにいる先生に見つかるかもしれないという心配があって、少し遠回りをして、下水路が流れてい側溝の脇を伝って隣の幼稚園とのコンクリート壁の隙間を通って学校に戻った。
 意外と行動力のある子供だったのかもしれない。


15.給食室

 給食室は,校舎のすぐ脇にあったから、お昼前には風に乗って美味しい匂いが教室の中まで入って来た。
 給食の時間になると給食室のガラスの戸が開け放たれる。戸の奥には出来立てのおかずの入ったパケットが置いてあるから、当番の児童はこれを持って来るのだ。
 給食のおばさんは全部で8人ほどいて、時折、開け離れた出入り口の奥で、大きな包丁とまな板で野菜を切ったり、鍋に入った食材を特大のしゃもじでぐるぐるとかき回しているのが見えた。
 夕方には翌日使う食材を載せた軽トラックが入って来て,肉やキャベツなどの食材の入った箱が運びこまれた。
 栄養士さんとおばさん達が,食器の洗浄や床の掃除を終えて楽しそうにおやつを食べていたのを覚えている。
 生徒は2,000人くらいのマンモス校だったので,給食のおばさんの作る給食の量も半端なく多かったんだよね。


16.墓参り

 両親の実家は僕の家から20kmほど離れたところにあった。はっきり覚えていないが、多分、ひと月に一度は田舎に行っていた。
 バスに乗って西駅で降りて汽車に乗る。伊集院駅で降りてまたバスに乗る。片道、2時間くらいの行程だったが、家族5人でじいちゃん、ばあちゃんの家に行って、両家の2つの墓参りをして、持てるだけの野菜をもらって帰ってくる。時には、1泊して帰ってくることもあった。
 覚えているのは、寒い冬の日、バス停で凍えながらバスを待っているシーンだ。田舎のバス停で、あまりにも風が強くて寒いものだから、民家の竹囲いの脇で手を擦りながら、足踏みをしながらバスを待って風よけをしていた。
 姉ちゃんは、バスに酔いやすい体質で、バスに乗るのを好まなかった。特に、県道に掛けられた橋が、弧を描いたように丸くなっているところが1箇所あって、そこをバスが通ると、一瞬体がフアッと浮いたようになる。僕は面白がっていたが、姉ちゃんは涙目になっていたような気がする。

17.キツネのマフラー

 母ちゃんの次兄は中学校の先生で、その頃桜島の裏側の牛根に住んでいて、冬休みに父ちゃんと二人でバスに乗って、その家を尋ねた。
 バスに乗っていると、着物を着た女性が乗り込んで来て前の席に腰を下ろした。暖かそうなマフラーをしていた。よく見るとマフラーの先端にキツネの頭がついていて青い目がこっちを見ているので、びっくりした。
 改めてネットで調べてみたら、昭和40年代にキツネの口がクリップになっているマフラーが流行したとある。目にはガラス玉が使われ、4つの足もそのままついているのもあったようだ。えーっって感じだが、これを若い女性が首に撒いて街を闊歩していたんだからね。

 
18.焼却炉

 校舎の片隅に焼却炉があった。昼休みの掃除時間になると火が入れられ,全ての教室から木製のちり箱を持った子供たちが出て来て、焼却炉の前に列を作った。
 焼却炉の投げ込み口がコンクリートの階段を数段登ったところにあって、6年生の男子がちり箱を受け取ってゴミを火の中に放り込むのだった。
 教室から出るゴミは、紙屑と給食の副食で出た牛乳瓶の紙の蓋,紙パックのジュース,ジャムのビニルだったと思う。そのほかに,掃除で出た木の枝や草,落ち葉も一緒に燃やされた。
 たまに先生も顔を見せるが,ゴミを投げ込む作業は6年生に任せっきりで,安全管理という認識もなかったし、ゴミを燃やすとダイオキシンが出るという情報はなかったのだから、全てが平和だった。


19.果物

 果物は、とても高価だった。リンゴにしても今スーパーで売っている値段の2倍も3倍もしていた。だから、リンゴやバナナを食べることはほとんどなかったが、風邪を引いたりすると、リンゴやバナナを食べることができた。リンゴは、「金のすりおろし」で母ちゃんが食器にすり下ろしてくれて、それをスプーンで掬って食べた。
 病気になった時だけ果物を口にすることができた。今では考えらない貧しい時代だった。


20.購買部・シャーペン

 購買部は,3つある公舎の真ん中に,小さな一軒家みたいな建物にあった。朝になるとおばさんが,木製の雨戸を開ける。そうすると,カウンター上に文具を並べた店がオープンするのだった。
 ぼくらは,平均台みたいな長い踏み台に上がってカウンターの品物を買った。
 上履きのシューズもそこで売られていて、サイズを言うと正面の棚から紙箱に入った靴が出てきた。
 シャープペンシルが発売されると、たちまち大流行した。メーカーから次々と新製品が出されるので,その度に,クラスの誰かの筆箱にはニュータイプのペンシルが入れられた。
 そのペンシルが流行する少し前。「鉛筆芯交換式ペンシル?」が流行した。
 鉛筆ロケット10個がストロー状のケース中に収まっていて、一個目の鉛筆の芯が潰れたらそれを引き抜いて,ケースの一番お尻のロケットに突き刺すのだ。そうすると前に力が順番に伝わって,2番目のロケットストローの頭から顔を出して尖った鉛筆を使うことができるという画期的なもので,手遊びには打って付けの玩具だった。


21.子ども会

 子ども会という組織があった。30世帯くらいの地区の小学生で組織されるもので,毎月1回、日曜日の夜に誰かの家に小学生がぞろぞろ集まって来て,地区の行事の打合せなどを行う会だった。
 僕の家は,その地区に後から引っ越して来たので,最初は何をするのかさぱりわからなかった。ただ,毎回,鉛筆とノートを持って違う人の家に行って,皆で仲良く膝小僧を並べて話しを聞いた。
 その日は一番坂の上にある家で子供会があった。初めて2階の子供部屋に入ったら,部屋の襖の上や窓枠の上、4面全てに額縁に入った表彰状がズラ-と並んでいた。僕の家では,そんな立派な賞状をもらった子供はいなかったから,びっくりした。
 後年、その家のお兄さんが霞ヶ関の官庁でどこぞの局長さんになったと噂に聞いて納得してしまった。

22.夏休み

 夏休みのラジオ体操は、お盆休み以外はぼほ毎日あった。
 朝、家を出ると霧が出ている時があった。学校の周りは住宅地だったが、まだ、田んぼが残っていたので、そのせいだろう。朝晩は今よりもずっと涼しかった。
 毎朝、校庭に300人ほどの子どもが集まった。ある年はNHKの朝のラジオ体操の全国中継があったほど規模の大きい会場だった。
 ラジオ体操から帰って朝ごはんを食べるとすぐ机に向かった。朝の涼しい時間に勉強するのが我が家の決まりになっていたからで、午後は何をしてもよかった。夏休みの宿題は「夏休みの友」という冊子があって、国語、算数、理科、社会の問題がたくさんあったから、それをやった。
 夏のおやつ定番はカルピス。冷蔵庫の氷をコップに入れて水で割って飲むのだが、僕はカルピスの原液をコップにたくさん入れて、濃ゆいカルピスを舐めるよにして飲むのが好きだった。
 二つ目は、かき氷。冷凍庫から丸い形の製氷皿を取り出して、家庭用の氷削り器のノブをグルグル回すとかき氷が出来た。それに、赤や緑の甘い液体をかけて食べた。
 夕方のなると庭に水を撒いた。打ち水だ。扇風機はあったがエアコンのない時代だから、天気のいい日の夕方には庭の草花にも水をやって、通路にも水を撒いて涼を取った。
 熱帯夜という言葉を聞くようになったのは、これからもう少し後の中学生の頃からだったと思う。


23.甘納豆・ふうせん,プラモデルetc

 正門の前に文房具,おもちゃ,それに駄菓子を扱う店が2軒あった。畳2枚ほど小さな店は駄菓子専門店で,壁に風船や甘納豆のくじ付きのお菓子,紐付きのあめ玉などが売られていた。
 甘納豆・ふうせんは1等、2等がなかなか当たらなくて、5等、6等がたくさん出た後もいつまでも残っている。もう出るだろうと、20円、30円を払ってくじを引くのだが、当たるはずがない。店のおばさんが当たりを調整しているなんて、純粋な子ども時代は思いもしなかった。
 大きな店では車や戦車のプラモデルを買って,設計図を眺めながら作った。特に戦車のおもちゃは,モーターで坂をぐいぐい上るのが面白くてたくさん作って壊れるまで遊んだ。
 竹籤で作る飛行機は、羽根になる部分の竹籤を蝋燭の火で炙って上手に曲げないと竹が折れてしまうので難しかった。その羽根に薄い和紙を貼り付けるのだが、これも慎重に糊付けする必要があった。最後に、頭に大きなプロペラをつけてゴムの動力で飛ばすのだが、前の羽根と後ろの羽根の左右と前後のバランスを微妙に調整しないと前に飛ばなかった。だから、あまり上手に飛んだ記憶はない。


24.ずぶ濡れになった

 4年生になった時に、転校生がやって来た。よく覚えていないが、東京からだったと思う。とっても背が高くてお洒落で、髪の毛に色がついていたから皆んな驚いていた。お母さんが美容師だった。
 彼の家は団地だったので、バス通学だった。日曜日に数人が集まって、彼の家に遊びに行くことになった。団地までは歩いて50分間くらいだったろうか。とにかく、大きな団地でグルグル歩き回って、やっと彼の家を見つけた。
 遊びに来いと言っておきながら、彼は家には上げてくれなかった。当然、ジュースも出なかった。ただただ家に行っただけだった。
 帰りしな、突然、雨が降りだして、雨宿りをすればよかったものを雷がなる中をずぶ濡れになって家に帰った。それきり、彼の家には行かなかった。


25.バス待合所

 校区は,西郷団地よりさらに上流の松元町との境まであったから,遠方の子供はバスで通学していた。西郷団地から通う児童はとても多くて,朝は,団地から子供達を乗せたバスが2台も3台も連なって走っていた。バスを降りた子供たちは,そのまま県道と川をまたぐ歩道橋を駆け上がり,小学校の正門の脇の通用口から校庭に吸い込まれていく。
 帰りのバス停は,小学校側にあって,川の脇のバス停のまわりには,人が3人立つのがやっとであったから,バス停から小学校側に通路橋が架けられていた。
 放課後,団地の子供は校庭内に造られた屋根付きのバス待合所の長椅子に鞄を置いてバスが来るまで遊んでいた。バス停までは乗り込む児童の長い列ができていたから,ドッチボールをして遊んでいても,バスがバス停に停まってから鞄を悠々と背負ってバスに乗り込む子もいた。

 
26.学校費

 学校費とタイトルをつけたが、なんと呼んでいたかは思い出せない。給食費と教材費を一緒にして毎月1回現金で納めていた。家で封筒にお金を入れてもらって,収納伝票にスタンプを押してもらうのだ。納める場所は,校庭の中のこぢんまりとした小屋で,僕らは朝早く窓口に順番に並んだ。収納口には小窓が開いていて,踏み台の上に立った僕らは,係のおじさんに封筒と伝票を渡すのだ。
 ポンポンと活きよいよくスタンプを押してもらうのだが,とにかく,子供の数が半端ない。なにしろ千人を超えているのだから朝早くから並ばないと,順番が回ってこなくて午前中の授業の休み時間に並び直さないといけないので大変だった。


27.用務員さん

 職員室と体育館の間に,小遣いさんと呼ばれる用務員のおじさんがいた。用務員室は大きなヤカンにお湯が沸いていて,テーブルの盆の上には湯飲み茶碗が伏せてあった。
 用務員室の外壁には,鍬やらスコップ,ホウキが立てかけてあって,よく教頭先生と一緒に木の枝うちや花壇の花植をしていた。
 昔を再現したテレビドラマでは,用務員さんが用務員室で寝泊まりしているので,そのおじさんも寝泊まりしていたのだろう。
 それに、電気ポットがない時代だから、校長室の来客、職員室の先生方の給湯にお湯は欠かせないものとして、用務員さんの役割は大きかったに違いない。

28.弟

 三つ下の弟は、何をするにもずっと一緒だった。姉とも三つ違いだ。姉は、僕が小さかった頃は、とてもよく僕の面倒をもみてくれたらしいが、僕の記憶には全く残っていない。
 一緒に遊んだ記憶はほとんどない。家族で宮崎の「子どもの国」に行った時の思い出くらいしか出てこない。
 弟はずーと一緒だった。鬼ごっこをする時も、缶蹴りをする時も、縄跳びやキャッチボールをする時も一緒だった。いつも後をつけて来るので、なんだか煩わしい気持ちになって、時には振り解きたいと思ったことさえあったほどだ。
 その弟は、虫取りに連れて行くと、いつも藪蚊に大量に噛まれてしまう。「足をバタバタ動かせ。」と言ってあっも、刺されてしまう。半ズボンの膝や腕に止まった蚊を何度叩いてやったろう。あっちこっち刺されて、赤く晴れてしまうのだった。そんな状態で家に戻ると、僕はよく母ちゃんから叱られたものだった。


29.舗装道路

 道路は未舗装だったから、家の前を通る車がいると、天気のいい日は砂埃が舞った。今では日本全国、アスファルト道路だらけで、未舗装の道は田んぼや畑の中の道くらいだが、当時は国道や主要県道くらいしか舗装されていなかった。だから、砂塵が家の中に入るのを防ぐため、お風呂の水をジョロに入れて家の前の道路に撒いていた。
 家の前の坂はU字になっていて幹線道路につながっている。用事のある車しか入って来ないものの、それでも車が通るたびに砂塵が舞った。車も砂埃が上がることを計算してゆっくり走っていたが、中には勢いよくスピードを上げて走る車もあって、特に夏場は窓を開け放ってあるから部屋の中まで砂埃が入ってくる。
 だから、その車が憎たらしくて、平板にクギを打ちつけて置いておけば、タイヤがパンクするだろうと真剣に考えてみたこともあったが、実行しなかった。もし、実行していたら大変なことになっていただろう。
 その後、道路が舗装されたのは、小学校3年生くらいの時だったろうか。

30.運動会

 運動会は,学校行事であると同時に、地域のお祭りだった。だから,終盤になると地区対抗の徒競走があって,これには,地区代表の足自慢の大人が参加するものだから,ものすごい歓声が沸いて大いに盛り上がった。
 大人の韋駄天が,バトンを受け取ると前を走る人をタッタタと抜き去る。その韋駄天を,もっと足の速い韋駄天が追い抜いてトップに躍り出てゴールのテープを切ろうものなら,その地区のボルテージは最高潮に達したものだった。
 当時はジャージというものはなかった。学校の先生はトレパンという白いズボンを穿いていたが、運動会に集まった大人達はたいがい麻の股引をはいて,また腹にサラシを巻いて校庭を走っていた。


31.保健室

 保健室は,職員室の建物の横,大きな銀杏の木の向かいにあった。身体測定やツベルクリンの注射はここで行われた。インフルエンザの注射も順番に並んで注射された。
 学校医の先生が注射器1本で,児童2人に注射する。一本の針を2人に使うのだ。当時は,肝炎などの研究が進んでいなかったからだろうが,今では考えられないことだ。
「2人目の注射の方が針が痛くない。」という噂があって,順番が来ると数を数えたものだった。

32.虫取り

 カブトムシとクワガタは、男の子の同士の友情を図るツールだった。でも、山はカシ、シイ、タブの木がほとんどで、カブトムシやクワガタがいるクヌギの木はごく限られていたから、それを手に入れることは難しかった。
 カブトムシやクワガタは朝の涼しい時間に土の中から這い出して来て木の樹液を吸って、昼間は土の中で寝ているわけだから、子供達で虫網や虫かごを持って山の中を歩き回っても、カブトムシに出会うことは一度もなかった。
 やっぱり、当時は情報が少なかった。だって、カブトムシにスイカを食べさせたら下痢をして死んでしまうことを知らなかったのだから。どの本にもカブトムシやクワガタを切ったスイカの上の乗せている写真や絵が溢れていた。
 木を思いきっり蹴飛ばすと、たまに、小ぶりなヒラタクワガタが落ちてくることがあったが、大きなクワガタはなかなか取れなかった。だから、大きなミヤマクワガタを取った友達は、お菓子の箱に入れたそれを学校に持ってきて皆んなに見せて自慢していた。

33.牛乳瓶

 3年か4年生の頃だった思う。家の庭先に牛乳瓶の箱が取り付けられた。黄色い箱で牛乳瓶が2つ入るサイズで、確か森永牛乳だった。毎朝、牛乳が配達されるようになったのだ。
 それから毎朝牛乳をとりに行くのが僕の当番になった。布団の中で朝早く目が覚めた時などは、牛乳の配達が来るとガチャガチャと瓶のぶつかる音がしていた。多分、新聞配達より早い時間に配達されていたのだと思う。
 最初は2本だった牛乳瓶は、後からビッグサイズの大瓶に変わった。1リットルくらいの大瓶で手に持つとずっしり重かった。
 母ちゃんはお腹が緩むからと言って飲まなかったし、父ちゃんが牛乳を飲んでいた記憶がないから、子ども3人で飲んでいたんだと思う。 
 6年生の頃にはフレークの箱が牛乳屋さんから届けられるようになって、しばらくフレークに牛乳をかけて食べることもあった。

34.はえ取り紙

 近所はサラリーマンの家が多かったが,一軒だけ昔ながらの農家があった。農家の納屋には,牛が飼われていて耕作用に使われていた。
 牛がいるので,ハエもいた。網戸をしてあるのだが、どうしてもハエが窓から入ってくる。どうしようもないから,家の台所には,はえ取り紙がぶら下げてあった。糸巻き状になった筒からべっとりとした茶色の巻紙を引き出して,天井にぶら下げる。何匹かくっついて汚れたら取り替えるのだ。
 夕方,おじさんが牛の手綱を引いて道を歩いてくることがあった。牛は真っ黒で大きかったから,僕らは牛が来ると道から離れて遠巻きにして見ていた。その牛も僕が4年生くらいになった頃にはいなくなった。そして,大きなハエもいなくなって,我が家からはえ取り紙もなくなった。

35.白砂青松

 小学校4年生の遠足だったと思う。バスに乗って串木野のハム工場に行った。その後、漁港に行って製氷工場を見学した。大きなプールはいくつも仕切りがあって、床下に見えるケースは青い色をしていた。
 見せてもらった大きな氷柱は、家庭の冷蔵庫で作る氷と違って透明だった。
 その後、海岸に出てお弁当を食べて、岩場で貝やヤドカリを取って遊んだ。岩場の先には、青い松の木の林が砂浜にそって、ずーっと向こうまで続いていて、緑と青い海、白い砂浜のコントラストが見事なまでに美しかった。
 もうあの白砂青松の風景を見ることはできない。

36.崖崩れ

 梅雨の長雨が続くと、崖があちこちで崩れた。鹿児島の土は、姶良カルデラの火山灰であるシラスが何十メートルも体積しているから、ちょっと雨が降り続けば、土手が崩れるのだ。
 今は治山工事や急傾斜工事のおかげでコンクリート擁壁などの対策が行われているから問題ないが、当時は梅雨時になるとあちこちで崖崩れが発生して、人家が流され人も亡くなった。
 だから、梅雨時に雨足が強くなると、よく学校の授業を中断して集団下校が行われた。児童の安全を考慮して上級生が先導して下級生と一緒に下校するのだった。
 今は交通安全のための集団下校だが、車の少ない時代にその必要はなかった。長雨の時だけの集団下校だった。

37.肉離れ

 家は小学校を見下ろす高台にあったので、学校に行くには急な坂を降りなければならなかった。だから、よく膝から上の腿の所を肉離れした。兄弟三人の中でも、なぜか僕だけ肉離れになった。肉離れになると、父が西駅のそばの整骨院に連れて行ってくれた。
 整骨院の先生は、タコ坊主の様に頭がツルツルピカピカの体のがっしりした初老のおじさんだった。いつもベットの上に乗せられて、ピリピリ電気を当てられ、赤い電球を灯して軽いマッサージをしてもらい、湿布薬を塗り、足に包帯を巻かれて帰ったものだった。
 頻繁に肉離れを起こすので、毎回整骨院に行くわけにもいかなくて、軽い症状の時には、家でも母ちゃんが小麦粉を焼酎で溶かした自家製の湿布薬をガーゼに塗って包帯で巻いてくれた。
 そうそう、これを書いておかなければならい。昭和45年当時、自家用車はまだ普及していなかった。だから、整骨院に行く時は、父ちゃんの大きな自転車のサドルの前に子供用に作られた自転車専用の椅子を装着して、その椅子に乗せられた。これが、低学年の時は意識しなかったが、さすがに4年生くらいにもなると、途中で同級生に会って冷やかされはしないかとビクビクしていた。だから、僕の肉離れは相変わらずだったが、恥ずかしさも手伝って整骨院へはその頃から徐々に行かなくなった。

38.マンモス校

 校長室には,西郷さんの「敬天愛人」の書が掛けあった。僕が入学した昭和42年には既に創立90年の伝統校だった。当時は戦後の高度成長期に入って,団地造成が盛んに行われていて,小学校の南東側1kmには上野団地が,それから川の上流4kmには西郷団地という大きな団地が造成されて,新しい家がどんどん建っていった。
 だから,子供達も爆発的に増えて,小学校は全国でも有数の超マンモス校になっていた。1クラスはおよそ40人,1学年8組くらいで,6学年全体で約2,000人の子供達で学校は溢れ、新しい校舎ができるまではプレハブ校舎も使われた。
 その後、周辺の団地に2つの小学校ができて、少しは生徒数が減るのだが、それでも子どもが多かった。

39.プール

 学校にプールができた。小学校5年生の時だった。それまでは,隣の小学校のプールに歩いて行っていた。
 新しいプールは,学校の裏門を出て,道を挟んだ向かい側の空き地にできた。新しいコンクリートの構造物が白くてまぶしかった。
 ポンプ室の脇の坂を上がって,ゲートの中に入ると,まず,シャワーを浴びる。次に,水を張ったコンクリート槽に順番に並んで入る。水にはカルキ粒が入れてあって,僕らは,その水の中を腰まで浸かって,2メーターくらい歩いた。カルキの粒は,歩きながら沈んでいるのがよく見えた。
 いたずらっ子はカルキを足の指で上手につまみ上げてから自慢するのだった。
 夏休みには、回数券を買ってプールに通った。泳ぎは大して上手にはならなかったが、水の中に使って動き回るだけで十分楽しかった。
 二学期が始まると、クラス対抗リレーがあったが、今と違ってスイミングスクールもなかったので、息継ぎを上手にして泳げる子は少なかった。だから、25メートルの真ん中で一度立ち上がって泳ぐ子の方が多かった。

40.風のない街に生まれ・・・

 5年生の二学期だったと思う。夏休みが終わって始業式に転校生がやってきた。すぐ仲良しになった。彼は男の子三人兄弟の末っ子で、一番上のお兄さんは高校生だった。
 彼が口ずさんだ歌のフレーズ、「風のない街に生まれ。風のない街に育ち。風のない街を・・・」は、誰の曲だったのだろう。とてもカッコよく新鮮だった。大人の世界に入れたような気がした。
 ニイロ君の家は、平屋の借家だった。家のすぐ裏は造成地だった。彼は、「美味しい水があるんだ。」と言って僕らをその造成地の奥に案内して、両手に水を汲んで飲んでみせた。僕らも順番に水を汲んで飲んだ。水は冷たくて美味しかった。
 半年ほどして、彼は突然引っ越すことになって僕らの前から去って行った。
 しばらくして、爺ちゃんの家に行って家を留守にして戻ったら、玄関のポストに手紙が入っていた。彼の住所は同じ市内だったが、バスと電車を乗り継いで一時間位の場所だったので、「年賀状に遊びに行きます。」と書いたものの、小学生にはちょと遠過ぎた。それっきりになってしまった。


41.カン蹴り

 カン蹴りは、とてもエキサイティングな遊びだった。それまでも、コマ回しやビー玉を使った遊び、カッタ(絵柄が入った分厚いカードをコンクリートの地面に置いた相手のカードをカードをコンクリートに叩きつけた勢いでひっくり返して遊ぶもの)が流行した。
 体力のいる遊びだった。まず、見晴らしのいい広場に空き缶を一つ置く。空かんに足を置いた子が数を10数える間に、攻める方のチームの子供たち5人くらいは、一斉に家や建物の陰に隠れる。
 一方で守るチームのは子3人くらいで、隠れた子供の姿を見つけたら、「〇〇ちゃん。みっけ。」と叫んで、空かんの所に戻って、空かんの頭を足でチョンとする。そうすると、見つかった子は、空き缶の脇で捕虜になる。
 捕虜を助けるためには、攻めるチームは守る側のチームに見つからないように物陰からいきなり走り出て、たとえ見つかっても「〇〇ちゃんみっけ。」と言われて、片足で空かんをチョンとされる前に、その空き缶を蹴って仕舞えば、リセットになる。だから、空き缶に走りこむスピードが要求されるスポーツみたいなもので、小学5年、6年生中心の高度な遊びだった。

42.ターザンごっこ

 缶蹴りと同時期に子供たちの間で流行った遊びが、ターザンごっこだった。住宅の裏手は山になっていて、山の上の方には畑が何箇所かに何面かあった。その畑を結ぶ道がいくつかあって、リヤカーを引いたおじさん達が野菜を載せて行き来していた。おじさんの中には、いつもだらっとした長袖のシャツを着て、一輪車を押して通るおじさんがいた。よく見ると、シャツがブラブラしていて片腕がない。どうしてだろうと思って、母ちゃんに聞いた。
 「戦時中にこの地区に爆弾が落ちて人が亡くなったんだって。そのおじさんは、柿の木の上から米軍の飛行機を見ていて、気がついたら右手が無くなっていたらしいよ。」と教えてもらった。
 確かに、僕らの住宅は、昔、畑だったところに20軒ほど新しい住宅が建てられているが、坂の下の方は昔ながらの農家で、「イボ神んさあ。」と呼ばれている小さな神社があった。今、その敷地の一角に記念碑が建っている。もちろん、小学生の頃にその記念碑に興味を示したことはなかったが、それが、戦争被災者慰霊碑であることに気づいたのは、随分後のことである。
 その畑を巡る農道の近道として、山の斜面に山道があって、その急斜面を登って行くと上の畑に出られるのだが、誰かが大きなかづらを見つけて、ターザン遊びを始めた。
 かずらは、木の枝から垂れ下がっていて、3メートルくらいあったのだろう。かずらを捕まえて、足で地面を蹴るとグンと体が勢いよく空中に飛び出していく。そして、振り子の端っこまでいくと、勢いが無くなって空中に一時停止したかと思うと、今度は元の場所にもう一度勢いをつけて戻ってくる。
 最初は、やんちゃな上級生の男の子がやって見せてくれて、みんなは怖がってやろうとしなかったが、だんだん見慣れてくると、下級生の男の子も、恐る恐る試してみて、振り子の幅は小さいが、それができるようになって、みんなで「あ、あー。」と声をあげて楽しんだ。山には藪蚊がいたから、多分、冬の遊びだったのだろう。
 

43.火災警報器

 真新しい公舎が建った。なにもかもがピカピカだった。5年生の土曜日の放課後だったと思う。僕は,誰もいなくなった廊下で,廊下の柱に取り付けられた赤く丸い警報器に魅せられて引きつけられた。興味本位にボタンのところのプラスチックを触ったら、中にグッと押しこまれてしまった。すると,ビリ,ビリリンとたちまち大きな音が学校中に鳴り響いた。
 音にびっくりした僕はそこに固まって立ちすくんでしまった。その後,先生達が駆け寄って来て・・・・。事の始終を聞かれるはめになった。
 なぜ,手が出てしまったのかよく分からない。作動ボタンという認識はあったのだろうけど、警報音が出ることまでは想像できていたのか。分からない。
 担任のサクライ先生はいつも怒ると怖い先生だったが,この時は,怒らなかった。なぜ,ボタンを押したかを聞かれたが,叱られなかった。
 先生は僕の両肩に手をかけて,「もう,するな。」とだけ言われた。ずいぶん落ち込んだ。でも、先生に救われた。


44.日曜の朝の遠行

 5年生の秋だったと思う。ある日先生が,「明日,朝6時に学校に集合して,武岡に登る集まりがある。参加したい人は,正門に集まりなさい。」と言われた。
 チャレンジ精神旺盛な僕は,翌朝,たくさんの人が集まっていることを想像して,父と二人で学校に行った。けれど,その日は,予想に反して,全学年で子どもは5人ほどだった。30分くらい歩いて高台に登り,ソテツ畑の中で朝日を見ながらラジオ体操をして帰った。
 その日,日記に「人が集まらなかった。」と書いたら,先生がそのことをクラスの皆に伝えてくれて,その次の会からは,クラスの仲間が3人くらい参加してくれた。次の回からは全体で30名を超える人が集まったと思う。
 毎月1回第三日曜日の行事で、小学校を卒業するまで僕は毎回その集まりに参加し続けた。

45.顎を二針

 体育の授業があって校庭にラインを引くことになった。先生から「ライン引きを持っておいで。」と言われた僕は,友達数人と体育倉庫に走っていって,石灰の入った袋からスコップで赤い箱に石灰を入れると,ライン引きを持って体育倉庫を飛び出した。と,その時だった。倉庫から一歩出た途端,僕の体は宙に浮いた。横向きになった体は,サッカーのゴールキーパーのように横に飛んで落ちた。
 コンクリートの床はツルツルで大理石みたいだった。運動靴がグリップを失って滑ったのだった。起き上がろうとして,手をついた。手の甲に,そして,コンクリートのタタキに赤い滴がポタ,ポタと落ちて広がって行く。血だ。一瞬なんだろうと思った。友達が叫んだのだろう。先生が駆け寄って来て,両手で僕を抱えこんだ。「動くな。じっとしていろ。」と言われてじっとして,空を眺めていた。クラスの友達が,僕を取り囲んでいた。押し当てられたタオルが真っ赤に染まっていく。体操服も血で汚れた。
 病院にどうやって行ったかは覚えていない。病院には,母ちゃんも来ていた。診察室に入った。医院長先生は,母ちゃんを見て,「傷口が大きいね。これは2針縫わないといけない。」と言った。看護婦さんが僕の頭をがっちり押さえて,医院長先生が僕の顎に針を通す。「痛くないよー。男の子だ。がまん。がまん。」と看護婦さんの声がする。がまんしたが,痛かった。丸い針は随分大きかった。
 その夜,担任の先生が僕の家を訪ねて来た。どんな会話がなされたかは覚えていない。
 母ちゃんは,その頃,洋裁の内職をしていた。婦人服の注文を洋裁店からもらって,型紙をおこして,洋服を縫っていた。この晩,家に帰った父は,母ちゃんに「お前が,洋裁なんかしているからだ。洋裁は辞めろ。」ときつく叱られたらしい。その時,そんなことがあったことは知らなかった。ずーと後から、高校生になった頃だろうか、母ちゃんが教えてくれた。


46.家族で苗字が?

 東京から転校生がやってきた。家は、学校の直ぐ近くの一軒家だった。彼の名前はスギモトくん。直ぐ皆んなで遊びに行った。家は普通の家だったが、家具がとても少なかった。そして表札はスギモトじゃなかった。
 理由を尋ねると、母親の名字が表札と同じだと言う。彼の両親は離婚したのだ。当時、女性が仕事を持って簡単に食べていける時代ではなかったから、離婚という現実に触れたのは初めてだった。父親はパイロットで、彼と妹の分の生活費の仕送りがあるのだと教えてもらった。


47.夏の大三角形

 星座の勉強が5年生の理科であった。ある日,先生から夏の第三角形の位置を見つけて,その動きを紙に書いて来なさいという宿題が出された。
 学校に近いカワゴエ君とキジマ君の家の近くに広場があったから、オク君と僕もそのに夜8時に集まった。
 人家は近くにあったが、家から漏れる明かりは、今と違って優しい明かりだったのだろう。満天の夜空に星座がはっきり見えた。その頃はまだ視力が良かったからかもしれない。


48.スーパーから物が消えた

 オイルショックが日本を襲った。原因は第4次中東戦争でOPECが原油の輸出価格を大幅に引き上げたことで、ガソリンなどの原油関連製品が瞬く間に上昇しインフレが発生したのだ。
 そして、日本国中で「石油製品が無くなって物不足が起こるのでは。」と考える人が多く出て、トイレットペーパーや洗剤の買いに走ったものだから、スーパーの棚はすぐに空っぽになった。 
 連日連夜、トイレットペーパーを求めてスイーパーに並ぶ人の列の報道がテレビで流れた。一部では売惜しみをしたり、買い占めをして高く売りつける業者もいた。
 僕の家でも困ったことになったのを覚えている。砂糖や醤油もなくなったんだから。あの狂乱はどのくらい続いたのだろう。半年くらいだったろうか?

49.日本列島改造計画

 衆議院の選挙ポスターだったと思う。「日本列島改造」というポスターが、そこら中の電柱に架けられたのは。小学生ながら、田中角栄の語りは面白かった。
 「えー、まー、そのー」て口ぶりを真似るのがクラスで流行した。


50.パンダ

 その田中角栄さんが中国に飛んで、その後、日中平和友好条約の証しとして贈られたのが、カンカン、ランランの二頭のパンダ。
 可愛らしいパンダが上野動物園に来るというので、日本中がパンダ一色になった。グッツが町中に溢れ、テレビも何もかも全てがパンダ、パンダだった。
 それから、日本人はこの中国のパンダ外交で、中国人と仲良くなったと勘違いしてしまった。でも、その後の経過を辿ると、鄧小平にしろ胡錦濤にしろ中国共産党は、野心を隠して日本の経済協力を取り付け、新幹線線の技術などを勝手な理屈をつけて自分達のものにしてしまったんだからね。
 だから、パンダで浮かれるニュースは見ないことにしている。


51.最後のSL列車

 昭和50年3月23日、九州で最後の蒸気機関車が鹿児島から宮崎まで「さよなら列車」として運行された。その日朝早起きをして、父ちゃんと二人でに隼人駅に行って、駅の近くの隼人塚で蒸気機関車がやって来るのを待っていた。隼人塚の周りには他にも4、5人のj人がカメラを構えて待っていた。そこへ、最後の蒸気機関車が、C55とC57の重連運転でやって来た。機関車はボーッと汽笛を鳴らして僕たちの前を通り過ぎて行った。
 オリンパスのフイルムカメラでシャターを押したのは父ちゃん?だったと思う。白煙を上げて走る蒸気機関車の白黒写真が我が家に残っている。

52.修学旅行

 修学旅行は、霧島だった。観光バスが坂道を上っていくと霧島林田温泉を過ぎたあたりから景色が変わった。松の木の枝振りが素晴らしく綺麗で、別世界に来たような気がした。
 バスが高千穂河原に着いた。そこで、生徒一人ひとりが木の杖をもらった。
 山道を樹木の間を縫うように登って行く。ミヤマキリシマの低木層がなくなるとゴツゴツした岩場に変わった。
 坂はだんだん急になって来たが、杖のおかげだろうか、そんなにキツイとは思わなかった。前の子の踏んだ場所に自分の足を置く。そうして、足を前に運ぶ作業を繰り返しているうちに頂上に着いた。
 山頂には、剣が刺してあった。天孫降臨の山に立って、周りを見渡すと四方が見えてすごく高い所に上がって来たことがわかった。
 頂上で弁当を食べて、しばらく休憩していると、石で囲われた避難小屋に皆んなが出入りしているので僕も入ってみた。そこには、管理人のおじさんがいて、ジュースなどが売られていたが、地上の3倍くらいの値段がしたのを覚えている。同じものでも条件が異なれば価値が変わるんだと思った。
 下山は、とても楽だった。当時は、山の斜面に岩が風化してできた砂礫が厚く積もっていたので、足を前に出しさえすれば、砂がずん、ずんと体を受け止めてくれて、飛ぶようにして山を降りることができた。あの頃はずいぶん体が軽かったなあーと、思い出すたび懐かしくなる。 


53.電話

 我が家に電話が来た。それまでは、先に電話を引いたご近所のナカムラさんの家に行かないと電話をかけられなかったし、急ぎの電話があった時は、ナカムラのおばさんが、「〇〇さん電話だよ。」と呼びに来たものだった。
 待ちに待った電話は、ダイヤル式の黒電話で、物凄いものだった。金額的なものはよく覚えていないが、今の金額では、30万から50万円位のものだったのかもしれない。何しろ、遠く離れた人と我が家に居ながらにして話ができるというものが我が家にある。とても信じられないような出来事だった。
 黒光する電話機は、独特の匂いがしていた。金属とプラスチックの匂いが混ざった、まさしく新品の文明器具の匂いだった。
 しばらくして、電話機は座布団の上に座った。そして、またしばらくして、引き出しのついた電話専用台の上に上がって、ダイヤルの丸い部分だけを残してカバーがかけられた。もちろん手に持つ受話器にもカバーが巻かれた。 
 

54.太陽国体

 国体に合わせて与次郎が浜の長水路に水族館ができた。
 小さな水族館だったが、特徴的なの円錐状の建物の天辺が円球になっていることだった。当時としては、とても斬新だったと思う。その円球の面に五角形の鏡が貼り付けられていて、遠く離れた僕の家からもキラキラ光ってよく見えた。
 でも、国体に合わせて作られた施設だったのだろう、10年も経過しないうちに、五角形の鏡もサビてしまい、最後は取り壊されて無くなった。
 国体の開会式には、近くの小学生が招待されたので、僕らの学校からも5、6年生が陸上競技場のグランドの隅に座って見学した。
 国体競技も好きな競技を選んで見ることができた。その時、サッカーを見学したが、当時はサッカーは全然認識されていないとてもマイナーなスポーツで、観客席はガラガラだった。

55.竹馬

 父ちゃんが竹馬を作ってくれた。竹馬は、竹で作るから竹馬なのだが、父ちゃんは木の角材で作った。どういう経緯で竹馬を作ってくれたのか覚えていないが、いきなり二組の竹馬が出来上がった。材料は、家の床下にあったか角材で、角材の角は丸く加工してあった。
 竹馬の難易度は足を乗せる部分の高さに比例する。だから僕と弟用に高さの違う竹馬を作ってくれた。上達は早かった。竹馬に乗って、道路を歩く。走る。そして、片足でケンケンをする。楽しかった。
 いつもは子供と遊んでくれる父親ではなかったが、なぜ、あの時、竹馬を作ってくれたのか。分からないままである。

56.カワハギの干物

 父の一番下の妹が甑島の郵便局員さんと結婚したので、それから毎年、ダンボールに入ったカワハギの干物が送って来るようになった。その旦那さんが船を持っていて、漁師の真似事をしていたらしい。
 それにしても、段ボール一杯の干物は、家族4人で食べるにはすごい量だった。だから、干物が届くと、コンロの上に網をおせて炙って食べるおやつになった。


57.教育実習生

 代用附属小学校という名前が学校名の前についてる我が小学校には、教育実習生がやって来た。なにしろ1学年8クラス(正確には覚えていない)もあったから、全部で48教室。そこに、教師を目指す大学生が各教室に2名から3名割り振られる。
 その時期が来ると毎年、学校全体で100名超の若いお兄さん、お姉さんが教室に入って授業を一緒に受けて、一緒に給食を食べて掃除をして、遊び相手になってくれた。
 最後は教壇に立って僕たちに授業をする。そうこうする内に、1ケ月くらいの実習期間が終了して、あっという間にお別れがやって来た。いつだったか、お別れの時に、「大学祭があるから遊びにおいで。」と言われて、友達6、7人で遊びに行ったことがあった。その時、初めて焼きリンゴというものをご馳走になったんだ。


58.無言電話

 父ちゃんは、国鉄の事務屋さんだった。管理局にいて、いつも忙しそうだった。一度だけ、日曜日に職場に連れて行ってくれて、机の上の計算機を見せてくれた。機械式の手回し計算機だった。少し飛び出た棒をいくつも動かして数字が書いてある位置に止めてから、機械の脇のハンドルをくるくる回すと計算の答えが出るのだ。すごいなと思った。
 それからしばらくして、父ちゃんが電子計算機を持って帰って来て、家で仕事をするようになった。計算機は、文字がブルーに光るとても大きなもので、桁は12桁あった。
 また、それからしばらくして、父ちゃんが東京の研修所に半年間、コンピューターの研修に行くことになった。
 電話が時々あったが、電話代がとても高かったので、毎晩8時に電話が3回鳴るようになった。「父ちゃんは今日も元気でいるぞ。」という連絡だった。
 


59.りんご箱

 父ちゃんが東京の研修から帰って来てから、秋になると毎年のように岩手の盛岡から「りんご箱」が送られて来るようになった。東京の研修で半年間一緒に勉強したお友達からだった。
 木箱の中から藁に包まれたりんごを取り出すと甘酸っぱい匂いがした。りんごは、すごく新鮮で噛むとシャキシャキと音がして、甘かった。鹿児島のスーパーではとても手に入らないそんなりんごだった。
 その後10年くらいは、毎年りんごの箱が届いていたと思う。


60.8時だよ全員集合

 ドリフターズのテレビ番組が人気になった。最初、学校では、「歌謡曲の歌番組は見てはいけません。」。8時だよ全員集合も「御行儀が悪いから観てはいけません。」といった理由で、先生やPTAでテレビを見ること自体を否定されていた。
 それが、いつの間にか社会で受け入れられる様になって、学校では番組の台詞やダンスなどの物真似が流行した。
 とにかく、ドリフターズは大人気だった。「あんたも好きねー。」って志村けんが片足を上げて言うのが学校でも大流行した。

 
61.焼きカレイ(ライス)

 夏休みに父ちゃんが、僕と弟を門司まで列車に乗せて連れて行ってくれた。門司港の駅に着いたら、父ちゃんの友達がホームに迎えに出ていて、門司のアーケード街に連れて行ってくれた。アーケードには、氷の彫刻がたくさん並べてあって、中には制作中のものもあった。人通りが多くて賑やかな街だった。そこで、おじさんが、門司の名物だと言って、「焼きカレイ」を御馳走してくれた。中身はカレイなのだが、表面がこんがりと焼けて、とても美味しかったことを覚えている。
 その後、関門海峡の下を通るトンネルにエレベーターを使って降りた。自転車も載せられる大きなエレベーターだった。僕たちは、関門トンネルを歩いて渡った。トンネルの所々に海水が滲み出て、チョロチョロと流れていた。人が造った巨大な構造物を初めて見た気がした。
 下関のお土産屋さんに、フグの提灯が大小たくさん売られていた。その時、そのフグの提灯を欲しいと思ったが口には出さなかった。
 どこにも泊まらなかったが、父ちゃんが国鉄の職員割引を使って往復ともグリーン車に乗った。とても快適だった。多分、朝早く出て、最終列車で帰って来たんだと思う。 

62.美術館とプラネタリウム

 5年生の時だった。学校から市立美術館の年間パスの販売の紹介があった。友達4人と話し合って、親にパスを買ってもらった。それから、毎月1回、日曜日にバスに乗って街に出るようになった。
 僕は財布を持っていなかったので、カメラのフイルムケースに百円玉や十円玉を何枚か入れて持ち歩いた。
 朝9時くらいに集合してバスに乗り、朝日通りで降りる。そこから、歩いてまず市立美術館に行くのだ。
 美術館の次は文化センター。文化センターは音楽ホールと科学館が一緒になった施設で、地下の科学館にはモーター仕掛けの遊び道具がいっぱい展示してあって、たくさんのスイッチを押して遊んだ。
 最上階には、恐竜の骨格展示やアンモナイトの化石の展示と、プラネタリュームがあった。
 プラネタリュームは、いつも夕暮れの風景から始まる。太陽が西の地平線に沈むとスクリーンが暗くなって、明る星が次々に姿を現す。係の人が矢印のついた光を操作して「今日の星座はこれです。」という説明で始まるのだった、
 季節の星座の説明が終わると最後に星座にまつわる話をアニメ化したスライドが映し出されて、物語が読み上げられる。それが終わると、東から日が昇りはじめホールが明るくなって全体が終わるというものだった。
 毎月1回プラネタリウムに通って、通年で12回全部の星座を観たと記憶している。
 帰りは、いつも歩いて帰った。途中で寄り道をして、饅頭やらたこ焼きを買ったり、お好み焼き家に入ったりして帰った。おかげで、道に詳しくなった。6年生の頃には、どの道を行けばどこに出るかもわかるようになっていた。


63.トイレ掃除

 銀杏の木が川沿いに4本くらい植えてあって,夏,青々と緑の葉っぱを枝いっぱいに広げる。秋には黄色く色づいて,銀杏の実が地面のそこかしこにいっぱい落ちた。
 落ちた葉っぱの量は相当なもので,掃除の時間にホウキでかき集めるのは大変だった。
 直ぐそばに,昔ながらの茅葺き屋根の職員トイレがあった。このトイレは,先生方のおられる職員室のある古い校舎と渡り廊下でつながっていた。このトイレの掃除は,6年3組の担当で,ホースでたっぷりコンクリートの床に水をまいて,クレンザーでこする。こすった後,水で流して,残った水をホウキで掻き出す。単純な作業だったが,冬は川沿いでとても寒かった。
 だから、焼き鳥屋で串に刺した「ぎんなん」を見ると、あの時を思い出してしまう。

64.家族旅行

 前にも書いたが、父ちゃんは国鉄マンだったので、夏休みは、たいがい列車を使った旅行をした。宮崎の「子どもの国」や阿久根大島、熊本の「水前寺公園」、「熊本城」に連れて行ってもらった。
 三つ上の姉と家族旅行時は一緒だった。姉とのエピソードを探してみたが、ほと思い出せない。姉がスイカが大好きだったこと以外、本当に何も思い出せない。男の子と女の子の遊びが違ったということだろう。


65.膨れ菓子

 母ちゃんはよく、蒸し器を使って、膨れ菓子を作ってくれた。
 小麦粉に黒砂糖を加え、それに重曹をいれただけのお菓子だった。それから、寒天。寒天をスーパーで買って来て、赤や緑の染料と砂糖を入れて鍋で煮込んで冷蔵庫で冷やす。出来上がった後で、もう一度上から、卵の白身に重曹を入れて泡状になったそれを上に乗せて、もう一度冷やすと、立派なスイーツの出来上がり。
 よその家より、お手製のお菓子をいっぱい食べたんだと思う。


66.甘酒

 冬になると、母が壺に洗った米を入れて、そこに酒屋から買った麹を入れて甘酒を作った。2日も置いたら、できた甘酒を鍋で温めていただく。米粒が少し残っているくらいが一番甘くて美味しかった。一週間を過ぎると発酵が進んで酸っぱくなるので、早く飲んでしまわなければならい食物だった。


67.家庭訪問

 新学期になると、担任の先生の家庭訪問があった。当時、ほとんどの家のお母さんは専業主婦で家にいた。また、子供もひと家族3人くらいいたから、3人の先生をお迎えするような具合だった。先生は一軒一軒、歩いて家庭訪問をしていたので、家庭訪問はおよそ1ケ月間もあった。
 授業は午前中で終わって子供達は先に家に帰って待っている。今か今かと落ち着かない思いをして待っている。だいたいの予定時間になると、前の子の家の方向に歩いて行って途中で先生を待っていた。
 母親たちは、お茶菓子をあれこれ考えるのが大変だったろう。

68.もちつき

 家には、餅つきの道具が一式あった。臼は石の臼で、杵もずいぶん大きかった。臼は、石屋に加工してもらった大きなもので、その他の、カシの杵、せいろ、番重は、じいちゃんの手作りだった。じいちゃんは大工だったが、家具職人でもあったらしい。父ちゃんが家を建てた同時に、餅つきの道具一式が我が家にやって来た。
 庭に釜戸を据え付けて、水を入れた鉄窯の上に、真ん中に穴の開いたセイロの底(台す)を置く。その上に、せいろを5段乗せて、一番上に屋根の形をした蓋を載せる。それぞれのせいろの中の底には竹すだれが敷かれていて、水で洗った餅米が蒸し布に包まれている。これを釜戸で火を焚いて蒸しあげるのだ。
 毎年、12月28日になると道具を小屋から出して来て、餅つきが始まる。杵は、よくテレビみるような杵のサイズではなくて、それよりも大きくて重かった。
 蒸し上がった餅米は、手早く石臼に移され、母ちゃんがこね、父ちゃんがつくという作業が繰り返される。父ちゃんは、杵を振り上げ振り落とす力仕事だが、母ちゃんは、火傷しそうな温度のもち米を、しゃもじと手のひらを上手に使い、「はい。」、「はい」と掛け声をかけて、臼の中のもちを上手に回転させていた。
 父ちゃんは、杵を振り落とすだけだが、母ちゃんの手際の良さは見事で、父ちゃんをリードしていた。
 餅がつき上がると、片栗粉を敷いた番重に餅の塊が移される。母は、餅を適当な大きさに千切ると手のひらで、クルクルとこねて、丸餅を作っていく。もちろん、父ちゃんも同じ様に丸餅を作るのだが、母ちゃんには敵わなかった。
 餅は、まる餅と長餅を作った。長持ちは3日ほど乾燥させて、そのままビニールに包んで冷蔵庫に入れ、食べる時に包丁で切って使う。それから、あんころ餅も作った。あんころ餅は、餅の真ん中にアンコを入れて作るのだが、これは出来立てを食べてもうまいし、後で、網の上に乗せて、少し焦げ目を入れて食べるのが大好きだった。
 餅をセイロに移した後の餅米の着いた蒸し布は、水に浸けておく必要がある。布には、蒸された餅米がいっぱい残っていて、これを噛むと甘いのだ。布を風呂場のタライに浸けておくのは僕の仕事だったから、布からむしってたくさん食べた。
 でも最初1つ目の時はいいが、3つ目くらいになるともうお腹がいっぱいで食べられなかった。
 正月は、餅をたくさん食べたなあー。


69.ちまき

 これも餅米の話だが、母ちゃんは毎年、田舎の祖母の家から、餅米と竹の皮、囲炉裏の灰をもらって来て、ちまき(あくまき)を作ってくれた。
 庭に釜戸を作って、その上に竹皮に包んだ「ちまき」を入れた一斗缶を置いて煮込むだ。
 「ちまき」の数は、30本くらいだったと思う。灰汁に漬けた餅米は、煮込むと餅米に粘り気を生み、独特の飴艶になる。それを砂糖をいっぱい入れたきな粉にまぶして食べるのだ。
 うまかったなあ。


70.バキュームカー

 日本のトイレの水洗化率は9割を超えたそうである。下水道や浄化槽が整備されて、日本の住宅の殆どはすいせんトイレに変わってしまって、トイレ環境はずいぶん改善された。
 天保山で国鉄の集合住宅に住んでいる時には、水洗トイレだったが、田上の新しい住宅に引っ越して、トイレが「ぼっとん便所」に変わった。水洗化されていない地域に引っ越したからだ。
 ぼっとん便所は、汚物がそのまま溜まるので、それなりの臭いがあった。そして、その汚物を月に1回の割合で、鹿児島市のバキュームカーが汲み取りに来る。 
 長いホースをトイレの下に突っ込んで、汚物を吸い上げるのだが、最後に「奥さん。水流して。」とおじさんが声をかけると、母ちゃんがバケツの水を2杯流し込むのである。バキュームカーが来ると、どの家庭もお母さんたちが、バケツに水を貯めて待っているものだった。4、5軒先からやってくるバキュームカーは、エンジン音が凄まじく、そして臭気も物凄かったので、子供たちは、バキュームかーの脇を通り抜ける時は、息を止めて通るものだった、流石に作業員の人に失礼になると思って鼻をつまみはしなかったが。田上地区が水洗トイレに変わったのは、それから10年経った頃だったと思う。


71.竹とんぼ

 田舎に帰った時、爺ちゃんが竹で作ったヘビのオモチャを見せてくれた。ヘビの胴体は、水道の蛇口くらいの太さで、竹を短く切って、前方と後方の2箇所に二つづつ穴を開けてタコ糸でつないである。尻尾の紐を引っ張ると、ヘビがクネクネ動く仕掛けがしてあって、本物みたく動くのだ。孫が遊びに来た時に喜ばせようと作ったものだった。
 それとは別に、竹とんぼもいくつか手作りしてあった。初めてみるオモチャで、どうすれば飛ぶのか要領を得なかったが、コツをつかんで慣れてくると、空高く飛び上がるそれは、素晴らしいオモチャだった。
 お土産に家に持って帰って、家の裏山にノコギリを持って行って竹を切ってきて、見よう見まねで竹をナイフで削って羽を作ってみたが、微妙な角度と羽の薄さを作り出すことが出来ずに、爺ちゃんの作った竹とんぼのように高く飛ばせることはできなかった。

72.風呂たき

 その頃、風呂は今と同じように家の中にあったが、ガス風呂はまだ普及しておらず、どの家も薪で沸かす風呂だった。
 薪風呂は、家の外に焚口があった。風呂の炊き方は、まず、新聞紙をぎゅっと絞って焚口の奥に起き、その上に小枝や木の木端を乗せ、さらにその上に太い薪を交錯させて、置いた新聞紙に火をつける。火が勢いよく燃え上がるまで、竹の筒先に小さな穴を開けた「火吹竹」を口に加えて、何度か風を送る。上手くいかないと、焚口の前にずっと座って、フウフウやらないといけない。
 最初、風呂焚きは父ちゃんの仕事だったが、僕が少し大きくなってからは、風呂焚きは僕の仕事になった。慣れないうちは薪に火が移るまでに時間がかかったが、経験を踏むうちにコツを掴んで上手に風呂が焚けるようになった。


73.薪割り

 風呂たきに使う薪は、父ちゃんの勤務先の国鉄の物資部から、トラック1台分の材木を配達してもらっていた。材木は、貨物列車を解体した廃材である。当時、モータリゼーションの発達に伴って、運送が貨車からトラックに変わっていく過渡期にあったから、使われなくなった貨物列車を解体して、その木材を国鉄の物資部が職員に払い下げていたものだった。
 何ヶ月かに一度、物資部からトラックがやって来る。トラックは、家の裏庭の低いコンクリートの壁の脇に横付けすると、大人の男達が、縦2メートル、横30センチ、幅6センチくらいのタールが塗られた重い板を庭に投げ込んだ。
 投げ込まれた木材で、狭い庭はたちまち一杯になり、そして木材の小山が出来た。
 父ちゃんは、休みの日にその小山から木材を引っ張り出して、30センチくらいの長さに、山のきこりが使うような大きな鋸で短く切った。それを隣家の石塀の下に積み上げていく。全ての材木を短く切り揃えると、今後は、長い取手のついた斧を出して来て、垂木の上に材木を置いてから、斧を振り下ろして材木を二つに割っていく。これを繰り返して、風呂焚き用の薪が出来上がるのだった。
 小さい頃は、父ちゃんの薪割りを遠くから眺めていた僕だったが、小学校5、6年生の頃には、鋸を引いて、斧を振り上げて薪を作れるようになった。弟も同じ様にやりたがったが、当時は3つ違いの弟との体力差があったので、弟はうまくそれをすることが出来なかった。今では、弟の方が体格もいいのだが。


74.オガライト

 物資部からの材木が届かなくなると、代わりに同じ物資部からオガライトという固形燃料がトラックで配達される様になった。オガライトは、木屑を圧縮して外側に黒い着火剤を塗った六角形の鉛筆を大きくした様なもので、真ん中に空気の通り道の穴が空いていた。長さは5センチくらいだったと思う。それを20本くらいまとめて茶色い包装紙で巻いたものが、1回に1ダースくらい届く。それを使って風呂を焚く様になった。
 そして、同じトラックの配達に、一升瓶に入った醤油や菜種油、20本入りの三ツ矢サイダーが一緒に配達されるようになった。


75.カナリア

 当時、どの家でも観賞用として鳥を飼っていた。僕の家でも、竹ヒゴで作った籠に、ツガイのじゅうしまつを飼っていて、裏の庭で取れた菜葉とかを餌として与えていた。
 そのじゅうしまつが、病気で死んでしまってから、しばらく経ったある日、田舎に帰って墓参りをしていた時に、父ちゃんの従兄弟の湯の元に住むおじさんに会った。そこで、おじさんが、カナリアをわけてくれるということになった。
 その日、父ちゃんと僕は、バスと汽車を乗り継いで、湯の元のおじさんの家に行って、ツガイのカナリアをもらった。金網が緑に塗られた大きなゲージに毛布を掛けて、それを汽車に乗せて持って帰った。
 カナリアは、玄関の中で飼われていたが、ある日、そのゲージにヘビが入り込んで、1匹を飲み込んでしまう事件が起こった。もう1匹は、生き残っていたが、しばらくすると元気がなくなって死んでしまった。
 今、おじさんの墓は、我が家の墓の隣にある。墓参りの時にはおじさんの墓も掃除して花を供えている。
 「おじさん、カナリアが永代供養(費)になったな。」と声をかけながら。

76.ネズミ

 ネズミが、押し入れの中に入り込むという事件があった。
 母ちゃんの亡くなった兄さんの肩身分けの蓄音機がかじられたのだ。蓄音機はスピーカーの周りがボロボロにかじられていた。
 父ちゃんが金物やからネズミ撮りを買って来て仕掛けた。
 ネズミはすぐに捕まった。
 もっと大きなネズミを想像していたが、捕まったのは二十日ネズミと同じサイズの小さなネズミだった。庭先のバケツに水を張って、金具の籠ごと水に浸してネズミを溺れ死にさせた。

77.レコード

 その蓄音機はそれを機に使えなくなって捨ててしまった。でもレコードは30枚ほど残っている。LPでもなくEPでもない。とても古いレコードで、LPより肉厚で重かった。だからSPじゃなかったかと思う。
 記憶に残っているのが童謡で、「汽車きしゃ、しゅっぽ、しゅっぽ。」って言っていたような気がするから、多分、レコード全部、童謡だったんじゃないかな。


78.小みかん(桜島みかん)

 今はみかんをあまり食べなくなったが、冬場、特に正月前の冬休みなどは、みかんがおやつだった。冬になると軽トラックにみかんを乗せた車がやって来て、どの家でも箱で温州みかんを買うものだった。
 また、後になると桜島子みかんのトラックもやって来た。桜島子みかんは、甘くて美味しかった。


79.豆炭あんか

 Noteに「豆炭あんか」のことが書いた記事があったので、「あ、そうだ。」と思い出した。
 我が家でも小学校の頃、豆炭あんかを使っていた。5人家族だったけど、子供3にんぶんの豆炭あんかがあって、それぞれ、ちょっとずつ大きさやら色の仕様が異なっていたから、子供の成長に合わせて買い揃えてきたもものだったのだろう。
 豆炭あんかは、布団の中に入れて使うものだから、豆炭を風呂の竈門に投げ込んでおいて、火力がついた頃を見計らって手バサミでつかんで、豆炭あんかの中心部に入れて蓋をする。それをキルト生地の袋に入れてから、布団の中に入れると一晩中ぬくぬくと過ごせるという優れものだった。今の旅行用のスーツケースをキュッと小さくしたようなもので、内側には石綿がぎっしり入っていて、中心部に窪みがあった。豆炭を入れて左右のケースを閉じ合わせ、パチンと金属の金具でロックをかける仕組みで、そのロックをかけるところが物凄く斬新な感じがしてカッコよかった。

80.湯豆腐

 この頃は、夕食によく湯豆腐が出た。底が広くて縁が低い黄金色のアルマイト鍋に火をかけて8分割した豆腐を野菜昆布で出汁をとる。出汁が出たところで、鍋をコンロからおろしてテ食卓のーブルに置き、鍋の中心に酢醤油を入れた小鉢を据えて、食事が始まる。
 豆腐を酢醤油の入った真ん中の小鉢に、箸で鍋の中の豆腐を摘んでひたす。それを各々が自分の小皿に取って割って食べる。
 湯豆腐の他にも、キャベツに卵を絡めて炒めたものが食卓に出ることがあった。母ちゃんはこれを給料日前の「ピンチ食」と呼んでいた。
 家のローンもあって、子供も3人もいて家計のやりくりは大変だったのだ。この後、池田勇人の所得倍増計画やら、田中角栄の日本列島改造なので、サラリーマンの給料も次第に増えて、少しずつ生活が豊かになってくるのだが、あの頃、もっと豊かな食事をしていれば、きっと今はもっと頑強な体になっていたかも知れない。


81.トランシーバー

 お正月は、鹿児島市内の親戚と東市来の田舎の親戚の家を全部で10軒くらいを回った。どの家でも、謹賀のあいさつが終わると、まず、「おとそ」が出された。
「おとそ」は、その家によって、酒の種類が異なっていた。
地酒のところもあったが、当時サントリーが出していた「赤玉ポートワイン」が多かったかもしれない。
 「赤玉ポートワイン」は、甘くで飲みやすかったので、いくらでも飲めそうな気がした。
 お年玉は、今と違って、本当に年に一度の現金収入の時だった。集まったお年玉は、毎年、2万円近くあったが、特に欲しいものがなかったので、無駄遣いせずに、大方は郵便局で定期貯金をしていた。
 6年生の時に、トランシーバーが欲しくなって、弟と半分ずつお年玉を出し合って、トランシーバーを買った。離れたところで、相手が見えないところで話ができるトランシーバーは、とてもワクワクする電化製品だった。
 ただ、会話中にタクシーの無線が混線してしまうことがあった。


82.父ちゃんの卵焼き

 母ちゃんは、洋裁が得意だった。だから、既成服が売られる前までは、僕らの洋服もお揃いの生地で作ってもらったものもある。また、近所のおばさん達は、ご主人のズボンの裾上げやスカートの縫製を頼みによくやって来た。おばさん達は、お気に入りの生地を買って来て、母ちゃんに縫製を頼むのだ。すると母ちゃんはメジャーでおばさんたちの体型を測って、それを茶色い型紙に起こして、生地をまち針で止めてハサミで裁断し、ミシンで縫ってあげるのだ。人のいい母ちゃんは、それで商売をしようとしていなかったから、手間賃はもらってもごく僅かだったと思う。でも、手間賃の他にお菓子などが、僕らにもらえていた。
 母ちゃんは、近所の人と一緒の婦人会に入っていて、日本が高度成長期に入って、父ちゃんの給料が前の年の倍になるくらい貰えるようになると、生活に余裕が生まれたのか、近所のおばさん達と手毬の手芸やら日本人形の創作教室に通うようになった。今もその時の日本人形が家に2体、ガラスケースに入っている。
 母ちゃんは、その婦人会仲間で、汽車に乗って泊まりがけで温泉旅行に何度か出かけて行った。
 子供達を父ちゃんに預けて、2泊3日くらいの旅行だったと思う。四国の金毘羅さまに旅行した時だろうか。父ちゃんが、卵焼きを作ってくれたのを覚えている。
 卵焼きは、母ちゃんがいつも作ってくれるそれとは違って、砂糖がたっぷり入っていて、焼き目もテラテラ光っていた。形も不恰好だったが、砂糖が効いていて美味しかった。


83.作業中の父ちゃん

 父ちゃんは、木材やら金型を買って来て家の造作をすることがあった。大工の息子(爺さんは腕のいい大工)としては、腕はどうだったのだろう。
 口癖は、「よかたいが。」だったので、案外大雑把なところもあったし、何よりも癇癪持ちだった。
 作業が思い通りに行かなくなると、癇癪を起こして周りにいる人間に当たるのだ。子供達は、最初は何ができるのだろうと興味津々眺めていても、言葉の端はしに苛立ちを感じると、危険を感じて後退りするようなことになるのが常だった。
 卵焼きをニコニコして作ってくれる父ちゃんとは違っう父ちゃんがそこにいた。


84.胸がチリチリ痛い

 6年生の頃だったと思う。胸がチリチリすることがあった。朝の登校時に坂を降っている時に胸がチリチリすることがあって、それが2週間くらい続いたと思う。チリチリする時間は短かったが、僕はとても不安を覚えた。なんだろう。心臓かな?と思った。とても不安に感じたが、そのことを両親には言えなかった。言ったら心配するんじゃないかということを考えていたんだと思う。
 チリチリが続いて、布団の中で「死んだらどうなるんだろう。」といったことばかりを考えていた。
 幸い、チリチリは収まったが、自分の死について考えたのはあれが最初だったと思う。

85.お誕生会

 クラスの友達に呼ばれてお誕生会に行った。後にも先にもお誕生会に行ったのは小学校6年生のその時だけだった。そのこの家はお金持ちで、自家用車があった。
 当時、自家用車を持っている家はクラスの中で2軒だけだった。テレビはもちろんカラーテレビで、さらに驚くべきことに、電子レンジがあった。電子レンジはまだ市場に出たばかりで、テレビのコマーシャルがよく流れていたから、どんな物かはうすすす理解していたが、実際に「チン」と音がして温かい茶碗むしが出された時には、お金持ちは違うなーと思った。
 電子レンジの価格は今の感覚からしたら70万円くらいしたのではなかったろうか。

86.マイティーチャー

 小学校の思い出に、彼のことを書いておこうと思う。
 マイタ君だ。彼は、5年生の時にクラスが一緒になって、前述のオク君やカワゴエ君と一緒に僕の家に彼らが訪ねて来たことがあった。そしてブロックの上に腰掛けながら学習教材の話が始まった。
 当時、学習塾というものは存在していなかったが、通信教育というものが新しく開始されて、「マイティーチャー」という教材が発売され、小学校にそのチラシが配られた後だったと思う。その教材費は、物凄く高かったから、話題にはなったが、誰も申し込みはしないだろうと思っていたら、彼がその「マイティーチャー」を始めたという。
 みんなで、「すごいね。」ってことになった。
「すごいね。」は、その最先端の高額の教材に取り組むことが出来る家の経済力と、もう一つは、それをこなせる能力。
 その時から、マイタ君のあだ名は、「マイティーチャー」になった。
 先日、ネットで検索したら、ある私立大学で海洋生物の研究をする教授になっていた。
 そうか、やっぱりね。 

87.坊主になりたくなかった

 6年生になった時、友達が、附属中学校の話をしてくれた。中学生は坊主にならなくてはならないが、附属中学に行ったら、坊主にならなくてすむというのだ。
 それで仲のいい男の子4人で「一緒に附属中学に行う。」ということになった。
 受験といっても小学校が推薦した生徒を抽選で決めるというものだった。
 その日、市内の応募者が付属中の体育館に集められた。110人の定員に700人が応募していた。白い抽選箱が舞台のテーブルの上に置かれていて、受験生は番号順に箱の中の小さな封筒を一つ取って元の位置に戻るという手順だった。
 合図があって皆一斉に封筒を開けたら、ハズレの真っ白い紙が入っていた。友達全員がハズレだった。
 3月の末、4人で散髪屋に行って順番に丸刈りにしてもらった。これが小学校最後の思い出となった。


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