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悪は存在しない〜クラウン・シャイネス〜

森の中

冒頭の、森の木々を見上げながら移動するシーン。
林冠から空が見え隠れするのを見て、クラウン・シャイネス(樹冠の遠慮)という言葉を思い出した。
樹木は枝を伸ばし葉を茂らせる時、風で枝と枝がぶつかり、互いに譲り合うように成長していくらしい。
木のソーシャルディスタンス。
映画を見終わって改めて思い返してみると、何となく物語を示唆しているように思える。
適切な距離をとり、共存してゆく。
自然と住民。
住民と開拓者。

巧は「もう一度、やろう」と言った。
ズケズケと入ってくる無遠慮な相手に対し、もう一度、仕切り直そう、と。対話をしよう、と。
対立することなく、バランスをとろうとした。
互いに対等であろうとした。

先生は言った。
上の方に住む者は、必ず下の方に住む者に影響を与える。だから上の方に住む者はそれなりの品格を持たなければならない、と。
相手の立場を尊重した発言だと思った。
こういう大人になりたいな、と思った。

延々と続く薪割りシーン

独特なカメラワークは、濱口監督作品の特徴のひとつかもしれない。
車の中から後方にカメラを向け、置き去りになる景色を引きで見せていく演出が面白かった。
極端に表情の少ない演者。
斬新で趣のある画角。

一つ一つのシーンはやや冗長にも思えるが、そこに流れる時間をきちんと写し取るように作られているのだと思うと、より丁寧な印象になる。
薪割りのシーンでは、「ちょっと待ってね」と言われ待っている様子を見ているうちに、自分も待たされている感覚になるし「ちょっとやってみたいなこれ」という気にもなる。

鳥の羽がチェンバロの部材になるらしい

この物語は結末を持たない。
「起承転結」の「結」が無い。

「転」の状態でエンドロールが流れるので、見ている側は突然の出来事の後、映画の中においてけぼりにされる。
今まで丁寧に丁寧に、演者たちと一緒に時間を共有してきたから余計にそう思う。
急に。
え?
なんで?
ってなる。

私はこの映画を下北沢のミニシアターで見た。
そのせいか、まるで前衛芸術の舞台をスズナリかなんかで見たような気持ちになった。

ちょっとザワザワして、なんだかワクワクした。

こんな風に投げられたら、鑑賞者は皆考えるだろう。
自分の「結」を。
「理由」を。
なぜ、一体何がこの状況を引き起こしたのか。
どこにその兆候があったのか。
ひとは何か「事」が起こった時、自分が納得する理由を無意識のうちに探してしまう。
納得したいからだ。
物事には理由があってしかるべきだと考えるのが人間だ。
私も私の「結」を探した。
そしてこのタイトルである。

『悪は存在しない』

「悪意」とか「悪人」とかではない。
「悪」だ。
悪が存在しないということは何だ。
逆に何が存在するのだ。
善か?
誰も悪くないということか?
いや違うな。
悪意はあったろう。
むしろ悪意しかないだろう。
悪意なくそんな事するか?
するのか?
するとしたら何だ?
それは誰だ?
それはもう、人では無い。
獣だ。

鹿の通り道にグランピング施設が出来たら、鹿はそこを避けて別の場所にいくのでは、それなら問題無いのでは。
……なんて無責任な発言なのだろう。
薪割りが楽しかった、こんな風に森で暮らすのは自分にあっている気がする、アドバイザーになって欲しい。
……なんて傲慢な発言なのだろう。


(普段は臆病な鹿も、手負いの時は、ましてや子どもが近くにいたら、人を襲うかもしれない)


適切な距離をとり、共存していく。
自然と住民。
住民と開拓者。
森の木々が遠慮し合いながら葉を伸ばしてゆくように。
全ての葉に日の光が当たるように。
影になる葉が出来ないように。

バランスが大事なんだ。
近付きすぎると、命を失う。
獣は、自然は、意思や意図無く、人を殺す。



そこに、悪意なんて無い。
悪は存在しない。



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