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新たな思いをもって「1日1食断食」@浜松・龍雲寺 (その3)

坐禅と法話

今日は、ここにきている理由・今後やろうと思っていることなどを記そうと思っていたのですが、朝の坐禅・法話ですっかり気が変わりました。

身体が曲がってしまった鯉

この季節の早朝坐禅は本当に気持ちがよく、20分という時間も短く感じられるくらいです。心も落ち着きますし、今日1日を頑張るぞという気にもなります。

ところがです。今朝の坐禅で何と池の中に「身体の曲がった鯉」を見つけてしまいました。最初は池の端の方にいたので、私が座っているところからは良く見えませんでしたが、変な形をした鯉がいると気になり始めました。
全体が見えないから余計に、どうなってるんだ?と思い、病気なのだろうか?お寺の人たちは知っているのか?早く処置しないと他の鯉にも影響があるのではないか?などなど坐禅の最中で無になるどころか、気になって気になって仕方ありませんでした。

何も気づいていなかった自分

坐禅後、早速お寺の方にそのことを伝えると、「そうなんですよ、もう半年くらいになりますかね・・・私も、死んじゃうかと思ったのですが、エサもしっかり食べて元気なんですよ・・・」

僕が驚いたのは鯉が長生きをしていることではありません。

もうここに何回も来ている、少なくとも3~4回はあの鯉を発見する機会はあったはずなのに、何も気づいていなかった。坐禅中もよく池を見ていたし、鯉が優雅に泳ぐ姿を見ながら心鎮めたりしていたのに、全く目に入っていなかった。

「人間は自分が見たいものだけを見ている」とよく言いますが、まさに今の自分がそれでした。
ビジネスでは、直接的なサービスや利益だけでなく幅広い視野を持って取り組むことを大事にしてきたつもりでした。サッカークラブでは、障がい者スポーツのサポートをしたり、SDGs等の領域にも関心を広げたりとか、とにかく目の前の物だけに固執・執着するのは止めようと思ってきたつもりでした。それなりの気配りというか、意識というようなものを持っていると自負していたはずなのに。
愕然とした気分になりました。

僕がこれまで見ていたのは何だったんだろう?

示唆にあふれた法話

今朝のご住職お話が、僕の心に深く残りました。一つのお話の中に、いくつもの要素というか「教え」のようなものが含まれていると感じました。
自分が何をしたいのかとか、頑張るぞとか言う話は今日は止めておきます。

⓪「俺が・俺が」のエピソード
ある大学での研究のお話です。「同僚10人一組を対象にして、一人ひとりに「このグループでのご自身の貢献度は何%くらいですか・」という質問を投げかけました。そして、その%を合計するという実験をいくつものグループで行いました。各グループの合計の平均値は140くらいだったそうです。

住職が問いかけました。
このエピソードから何を感じますか?
「本来であれば多少の誤差はあれ、100に近い数字になるはずなのに、なぜかそれを40点もオーバーしている。この40の持つ意味をどう考えますか?」「自分はやっている」「俺が貢献している」という思いの表れ・集合体と言えませんか?

①おかげさま
この実験で、事前に「まずは、同僚の人たちがそれぞれどれくらい貢献しているかについて考えてみてください」という問いを投げ、考える時間を与えたところ、なんと「自分の貢献値の合計」平均がほぼ100になったそうです。

「地味で気づかないかもしれないけれど、大事なことをやっている人がいる」「だれもが何かしらの貢献をしている」などということに気づいた瞬間に、「俺がやっている」「自分の頑張り」に対する過大評価は失くなっていくのです。

「おかげさま」という言葉の持つ意味(由来と言ってもいいかもしれません)を考えてみましょう。本来日の当たらない「かげ」という言葉に、「お」と「さま」という2つも丁寧な言葉がついた「おかげさま」という言葉。誰かのおかげで、今の自分がある。命はもちろん、食事や衣服、その他全てのものが誰かのおかげでできている。

そう思ったら、「俺が俺が」なんてことはなくなりますよね。
良寛和尚の言葉にもあります。
我が我がのが(我)を捨てて、お陰お陰のげ(下)で暮せ

(いくつかの法話をリンクします)
おかげさまです、ありがとう
おかげさまも禅語

いつものウォーキングコースから少し離れた場所まで行ってみました

②恩返しの前に「恩を知る」ことから
「恩返し」という言葉があります。何かをしてもらったから恩を返すと考えていると、今度は自分が何かをしてあげたから「返してもらう」ことを求めるようになります。これは本来の「恩返し」の言葉とは違います。

まずは「恩を知る」こと。「おかげさま」で生きていれば、「恩を知る・感謝をする」ことができるようになる。そして、「恩を返す」とは必ずしも、何かをしてくれたその人に返すとは限らないということを知る。善行を受けた人が、そのことに啓発されて周囲の人に優しくなる。これも立派な恩返し。
見返りを求めない行い・施しが大切なのです。

いつ見ても圧巻 世界一大きな般若心経(金澤翔子さん書)

③知っていることと、実践できていること
ご住職は法話を以下のようにまとめられました。

これらのことは当たり前だし、言われなくても分かっている。
誰もがそういうし、実際に皆分かっていると思います。
でも、なぜか実践する人は極めて少ないのも現実です。
こういった法話でよく話すのですが、コロナ禍で「医療従事者の方々に感謝」ということが盛んに言われました。
誰もが、医療従事者の方々のご苦労はわかっています。だから何かイベントがあるごとに枕詞のように「医療従事者の方感謝を・・・」ということが語られました。でも、本当に心から感謝していた人はどれくらいいたのでしょうか?

知っていること・わかっていることと実践していることは違います。
仏教は「祈り」の宗教ではなく「実践」の教えであると言われます。
お経を唱えても、坐禅をしても、仏さんを拝んでも、それで幸せになれるわけではないのです。今こうやって、私の法話を聞いて何となくいい気分になったり、少し自分が高まったような気になりますがそれは錯覚です。
聞いただけでは何も変わりません。知っているだけでも何も変わらないのです。
少しずつでもいいから、1日ひとつでいいから、実行できる人生を送りたいものです。

今晩の夕食 「おかげさまで毎日、美味しくいただかせていただいています」

自分が、自分がの話は何か成し遂げた時に、誰のおかげでできたのか、どんなことに感謝しているかを記すことにします。

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