幼い頃の罪を思い出して「なりすまし」の闇を見た気がした
たまたま、なりすましとか声真似とかの話が同タイミングで話題になってた
で、自分のことを振り返ったらやっぱり似たような時期あった
…誤解されたくないから先にいうと、私は人の真似はしたことあるけどそのものズバリを自分のものだと言い張って使ったことはない
まず一つは絵のこと
さすがにもう時効だと思うので書くけど、昔、本当に権利関係のことがまったく頭になかったとき、とある写真をなんらかの形で見つけて、その作品の要素の大部分をなんとなく真似したものをネット上に発表(投稿)したことがある
実は見てもらった方には結構評価をいただいているものなんだけど、制作の裏がこんな感じなので本当は使うべきじゃないんだろうな…と思いながら、いわゆる拾い画というものでアイコンを使いたくなくて(作者不明の作品をそのまま使うことになる=無断転載)これはちゃんと自分で描いている自作イラストだから…と他に使えそうな作品がなく使っていた
ちなみにnoteもしばらく古いケータイのデータをそのまま持ってきてしまっていたためどこで拾ったかわからない画像を使ってしまった時期があり、権利関係のことを重く重く受け止められるようにその頃にはなっていたためあるタイミングでフリー素材を使って自作したものに変更した
だいたいこの権利問題をちゃんと考えて画像を扱うようになったのは大学生のころ…それまではネットで量産されている「拾い画」と呼ばれる作者不明、投稿者不明の個人が作ったものをケータイ、PCなどで使う画像に使っていた
その多くはだいたい友人から教えてもらうものばかりで一度教えてもらってからは随分と画像を漁ったりしてた
大半は「違法」だったんだと思う
今の私の理解は、自作じゃない画像は保存はOKな場合が多いが、ネットにつながり多くの人に見られる可能性のあるところへの使用は基本NG、SNSのアイコン、ヘッダー、プロフィール画像、Webサイトなど、作者が許可してない場合が多い(というかこれら全て無断転載、リポスト行為)
なので今の私のSNSはアイコンが私が描いているか、あるいは依頼して描いてもらい掲載許可を得たか、作者がカスタマイズ画像をフリーアイコンの素材を提供しているか、自分でとった写真だけにしている
それほどに罪深かったなと知ってから思う…本当に知らない、考えない、ということは恐ろしい
かつて身の回りにも盗作で燃えた人がいたが私以上にクリエイターの権利のことを知っててもそういうことをしていたと発覚したときは直接の被害がなかった部外者であったにも関わらずとても腹を立てたことを覚えている
昔話ばかりして話がそれたが、最初に書いた声真似やなりすましも似たような問題なのだろうな、と思う
自分がつくるものに「自信がない」のだろう
なにも私は自信がある、ということを言いたいわけじゃない…私はクリエイターさんの権利を大切にしたいから「しない」と決めてなるべく自分で準備するようにしただけで絵を描いてきた期間だけはそこそこあるけどけして注目を集められるようなものじゃない
そりゃ私だってこの画像かわいいな、使いたいな、作りたい雰囲気にすごく近いななんておもうことはある…でもそれはしちゃいけないことだと知った
高校以降に出会った周りの人にクリエイターの人達がたくさんいたから、彼等がたくさん時間をかけて、細かいところたくさんこだわって、作品にたくさん愛を詰め込んで、見ている人たちに届けてくれていると知れたから…
その努力や時間や作品に込めた思いや愛を赤の他人が無断で使うことは許しちゃいけないんだと思った
いくら自信がなくても、そこに「自身」がいない作品を掲げても一時は嬉しいだろうけど罪を自覚したらきっと虚しい
しかもその行為はリスペクトなんかじゃなく作者を自分を飾る「道具」にしか見ていない行為なんだとおもう…本人達は無自覚かもしれないけど
それを防ぐためにクリエイターは自我をちゃんと出したほうがいいだとか、クリエイターとして活動するならクリエイターに徹するべきとかいろんな意見見かけたけど、それは「自衛」であって、なりすましは解決しないと思う
さっきも書いたけど自分を自分のままで表現することに自信がない子が多いんじゃないか…
それと同時に私はこんなことを考えた
子どもらしく振る舞える期間が極端に短かったのではないか、と
これも周りの話になるが、親が不安定だったり、下のきょうだいがいたりすると早く「オトナ」にならざるを得なくなるらしい
そして、周りの大人に求められている役を自分から演じ続けようとしすぎてしまうのだそうだ
大人の期待に応えるために、自分をかなり若い時期に○してしまうのだという
ここからはあくまで私の予想なのだけどそうして本当に大人になる前に求められる自分にならないといけないと周囲から大切にされないと気づいて「何者か」になりたがって求められている誰かを自分にしてしまうのだと思う
人気の絵師、インフルエンサー、話題の作品の声優、ネット活動者(芸能人の真似事)…そんな人達を自分と重ねて、彼らや彼等のコピーになれば自分は大切にされると思いこんでいるのではないかなと…
あくまで想像だけどネットの世界が自分の評価と思い込んで活動に躍起になっている子たちは私にはこんなふうに見えている
そしてこの問題、本当に根深いなって…誰かを演じてない時の自分を誰も評価してくれないと思いこむのって本当に悲しいことだと思う
私は残念ながら誰かを演じきることができなかった人間なので「私」のままで藻掻くしかできない…私の真似は必ずオリジナルからは離れてしまうからいつの間にか別物にいつもなってしまっているのだ
そしてどこからか我流が入ってくる(だからそのものにはなれないし、上達がとてつもなく遅い)
でもだからこそ、「何者か」になって生きようと考えたことがあまりないのかもしれない…この人みたいになろう(この人になろう)を感じたことって多分ないのだ
だから必ず真似じゃなくなる…悲しいほどに「私」が出てくる
消したかったけど消せなかった「私」で生きるしかない
なりすましや、何者かになろうと躍起になるのを辞められるのは、自分の無限の可能性をある種、諦められてからなのかもしれない
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