五木寛之「文藝春秋と私 池島さんと半藤さん」
政界のフィクサー、伝説の女優……その人脈に驚かされた。/文・五木寛之(作家)
五木氏
「”植木賞”もらったんやってね」
いま身に着けているこの腕時計は、直木賞でいただいたもの。1965年の、オメガのコンステレーションです。文字盤の裏に「五木寛之君」とか「日本文学振興会」なんて刻印してあります。文春とのご縁はその時からですね。『蒼ざめた馬を見よ』という作品で受賞したんですが、もう55年も昔のことになります。
当時、私は金沢に住んでいました。それまでは東京で放送作家をやったり、ルポルタージュを書いたり、レコード会社で作詞をしたり、と目まぐるしく働いていたのですが、そんな騒がしい生活にも嫌気がさして……。それですべての仕事を整理して、金沢に引っ込んでいたんです。今から思えば、軽い鬱状態だったのかもしれません。
虫のいい話ですが、静かな街に住んで年に一作くらいのペースでポツンポツンと小説を書いて暮らしていけたらいいなあ、というのが当時の私の夢でしたね。
ですから受賞の報を聞いた時は正直、躊躇するところがあったのです。「そうか、またあの世界に戻るのか」と。今の静かな暮らしを喪失する不安に駆られて、受けようか辞退しようか一瞬迷ったくらいです。こんなこと言うと、「カッコつけるな!」「じゃあ、なんで候補を辞退しなかったんだ」なんて言われそうですけどね。でも、小説を書きたい気持ちはありましたし、自分の書いた作品が世間にどう評価されるのか知りたいという気持ちもあったのです。
可笑しかったのは、受賞した直後に行きつけの喫茶店に顔を出したら、「ああ、五木さん、“植木賞”もらったんやってね」って言われたことですね。
直木賞じゃなくて植木賞。兼六園をはじめ、市内にたくさんの庭園がある金沢では植木職人はとても市民から尊敬されているんです。職人さんが木に登って謡曲を謡いながら、枝葉をハサミでちょんちょんと切る。それで昔、金沢は「空から謡が降ってくる街」なんて話があったくらいですから。当時は、私がもらった賞もきっと植木にまつわるものだと思われたんでしょう。
受賞したからには、気持ちを切り替えて、少なくとも次の受賞者にバトンタッチするまでは必死で頑張ろうと決めました。来た仕事は断らずに何でも受ける。それはもう戦争中の滅私奉公のような決死の覚悟で働きました。出版社や読者の期待に応えないといけない、という義務感のようなものもありましたね。とにかく全力疾走。連日原稿の締め切り続きで、よくもまああんなことができたなと思うくらいです。
兼六園
飛行機に原稿をのせて運ぶ
ただ、地方の金沢で執筆する生活は、何かと不便でもありました。今でこそ、金沢から東京までは北陸新幹線に乗れば2時間半で着きますが、当時は、わざわざ長岡回りで新潟まで行って信越線に乗り換え、スイッチバックして金沢へといった具合に長時間かけて、すごく厄介な道順を辿らなければいけなかった。
ですから編集者も気軽に原稿を取りに来ることができなかったんですね。まだファックスさえない時代なので、タクシーに生原稿を預けて、小松空港まで運んで飛行機にのせる。そして私が編集者に「何時の便で着きますから」と電話を入れて、羽田空港で回収してもらう、というやり方です。
そうやって何年かは上京せずに金沢に踏みとどまって頑張っていましたが、仕事のペースが激しくなってくると、これはとても無理だと、断念せざるをえませんでした。それで遂に金沢を離れることに決めたんです。
私は大陸からの引き揚げ者なので港町のようにいろんな土地の人間がごちゃごちゃと集まった地域が好きでね。暮らしていても楽なんです。ですから最初は神戸や函館も考えましたが、東京に1番近いということで、結局は横浜に移り住んで、本格的に作家活動を始めることにしました。
若い頃にお世話になった、文春の編集者でまず思い出すのは、小林米紀さん、豊田健次さん、村田耕二さんといった方たちですね。
とくに村田さんには「文藝春秋」の「にっぽん漂流」(1969年1月号~12月号)という連載を担当してもらった関係でいろいろな思い出があります。坂口安吾の「安吾の新日本地理」という面白い連載があって、それに影響を受けたんでしょうか。私と「M記者」こと村田さんが福岡、沖縄、伊勢志摩、高千穂など全国各地いろんなところをめぐって、その珍道中を面白おかしく綴るという企画です。
最初は編集部から「何かしたいことはありませんか」と聞かれて始まった連載ですが、あれこれ悩んだ挙句、なぜか「殴られてみたい」という、その時に抱いた妙な衝動を伝えた。「それなら警策はどうか」という村田さんの提案で、第1回の行先は永平寺に決まりました。冬の寒い朝、座禅を組んで、後ろからお坊さんに警策でバシーンと肩を叩かれて。あれは痛かったな。
村田さんは連載中も「頭よりも体を使って書いてもらう」「どうも頼りない」なんてズケズケ辛辣に物を言う。面白かったし、悪友のような感じの付き合いでしたね。
文春の中興の祖と呼ばれ、社長も務めた池島信平さんにも、どういうわけか、私は妙に可愛がってもらいました。「週刊朝日」の扇谷正造や「暮しの手帖」の花森安治と並んで「ジャーナリズム三羽ガラス」なんて評されていた人ですが、池島さんは新人にも大家にも分け隔てなく、いつも笑顔で接してくれる闊達な人でしたね。
池島信平
池島さんへの弔辞
人脈も豊富で「五木さん、面白い人がいるから会ってみるかい」なんて呼ばれて気軽に行くと、政界のフィクサーと呼ばれた田中清玄さんがいたりする。山口淑子さん(李香蘭)がいることもあった。まあ何とも不思議な人たちに会わせてくれました。あとで聞いたら「小説の材料になると思って」と言っていた。
池島さんが亡くなって青山斎場で葬儀をした際には、まだ新人だった私が弔辞を読んだんです。これはどう考えてもおかしな話で、「池島さんには偉い知人がいっぱいいるから、誰かに頼むと揉める。それで新人の一番ペケペケの五木にやらせたんだよ」なんて言われました。結局、今になってもなぜ、私が頼まれたのかは分かりません。
ちなみに私が弔辞を読んだのは生涯で3人だけです。作家仲間の野坂昭如さんと、新人賞のときにお世話になった「小説現代」初代編集長の三木章さん、そして池島さん。弔辞と言われても勝手が分からないから、池島さんの時も、とりあえず紙にペンで書いたら、後で周囲から「薄墨で書いて遺族に差し上げるものだよ」と注意されてね。慌てて書き直しました。でも、三木さんの時は即興で読んだし、野坂さんの時は、作家同士だからと原稿用紙に万年筆で書いたと思うな。
田中清玄
半藤さんとの不思議な縁
文春の編集者でいうと、もう一人、半藤一利さんとは不思議なご縁を感じたことがありました。1967年に「週刊文春」でスペイン内戦を舞台にしたサスペンス、「裸の町」というのを連載したんですが、その時のデスクが半藤さん。でも実は、その何年も前に半藤さんとは出会っていて、それもまだお互い学生の頃でした。
私は早稲田の露文科でしたが、4、5人の仲間と一緒に「ラグタイム宣伝広告社」なんてインチキ会社を作って中野を縄張りに小遣い稼ぎをしていたんです。プラカードを掲げて歩いたり、サンドイッチマンをしたり、そんなことをやっていました。
グループの中に松岡新児さんという先輩がいた。彼は作家松岡譲氏の息子、つまり夏目漱石のお孫さんだったんですね。そんなことも気にせず、私たちは「松岡、松岡」と気安く呼んでいましたが、1番の年長者でみんなから慕われるリーダー的な存在でね。私たちがドストエフスキーや埴谷雄高を抱えて歩いているときに、サルトルやカミュなんかも読んでいて、都会的な雰囲気の漂う文学青年でした。
その松岡新児さんがある日、「友達を連れて来た」と言って、見ると隣に眼鏡をかけた剛毅な感じの背の高い青年が立っている。それが半藤さんだった。長岡中学時代の友達だという話でした。ちょうど東大を卒業する直前だったんでしょう。戸田のボート場の話などを聞いたのですが、ただのスポーツマンではない知性を感じさせる人でした。若いのに風格があった。もしかしたら、松岡さんも東大の友人がいる、と私たちに自慢したかったのかもしれないですね。
そういう経緯があったので、「週刊文春」の連載で半藤さんが担当デスクになった時には、「いや、お久しぶりですね」という感じでした。デスクとしての彼はとても厳しかったですけどね。
松岡譲氏の名前を聞いて、もうお気づきかもしれませんが、半藤さんの奥さまの末利子さんは、松岡譲氏の四女にあたるわけで、新児さんの妹なんです。当時もほんの時たま、新児さんが連れてきて顔を見せることがありましたけど、それはもう素敵な女子学生でね。みんなにとってのマドンナでした。まさか、半藤さんと末利子さんが一緒になるとは、その時は夢にも思いませんでした。
作家としての私にとって文春はどこか家庭的な雰囲気がある懐しい出版社でした。もちろん仕事のうえで乗り越えなければいけない修羅場はありますが、いつも編集者と一緒になって和やかに遊んでいる感じがあった。編集者もビジネスライクにならず、どこかにおっとりしたところがあって、面白い人が多かったですね。
半藤一利
講演旅行と文士劇
残念ながら今はなくなってしまいましたが、文春主催の「講演旅行」や「文士劇」なども、文春だからこそできた行事だったと思います。
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