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牧久 「白雲木の花の香りに誘われて」 巻頭随筆

文・牧久(ジャーナリスト)

愛新覚羅溥傑夫妻 ©時事通信社/Roger-Viollet via AFP

いまから15年ほど前、おもに社会部記者として過ごした新聞社生活を終えた私は、千葉市・稲毛に居を定めた。健康維持のため、稲毛海岸までのジョギングを始めて間もない5月、海岸にほど近い、古びた木造平屋建ての和風住宅の庭から、甘い香りが漂ってくるのを感じた。見上げると、一本の木に真っ白な花が下向きに咲き乱れ、その花から香りが漂っていた。その家の門扉には「千葉市ゆかりの家・いなげ(愛新覚羅溥傑(あいしんかくらふけつ)仮寓)」と記されていた。

この家の床の間に、一幅の書が額に入れられて展示されている。満州国皇帝・愛新覚羅溥儀の弟で、昭和12年に日本の公家の娘、嵯峨浩(さがひろ)と結婚した、溥傑の自詠自筆の書の写しである。

日本の陸軍士官学校を優秀な成績で卒業し、千葉市内の陸軍歩兵学校に通っていた溥傑は、新婚時代の半年間をこの家で過ごした。妻の三年祭(神道での没後3年目の祭祀)にあたる平成2年5月、次女の嫮生(こせい)とともにこの旧居を訪れた溥傑は、新婚時代の想い出に浸りながら2首の漢詩を詠み、筆を振るった。中国の現代三筆のひとりとされる書家でもある溥傑の書は千葉市に寄贈された。当時、83歳。中国人民代表常務委員会委員だった。

漢詩にはこんな訳文が添えられている。

「過ぎ去った歳月を顧みて再び千葉に来る。世の中はすでに大きく変わっているが、余齢をもって稲毛の旧居を訪れる。新婚当時は琴瑟相和(きんしつあいわ)して仲がよく、まるで夢のようだった。短い期間ではあったが、想い出すとつい我を忘れてしまうほど幸せだった」

「愛しい妻の姿と笑顔は今は何処に。昔のままの建物と庭を見ていると恋しい情が次々と湧いてくる。君と結婚したその日のことが目の前に浮かび、白髪いっぱいになった今にかつての愛の誓いを思い出すにはしのびない」

このとき溥傑に同行した嫮生は、母・浩の実家で育てられた白雲木(はくうんぼく)の苗木を、この庭に植えた。以来三十年余。春になると、あたかも青空になびく白雲のように花を咲かせる。戦前、白雲木は宮中でしか育てることが許されなかった「禁廷木」だった。

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