小売市場 (こうり いちば)
小売市場については、1986年の浪速短期大学の池田先生の論文が詳しい。ネット上に公開されているもので。
池田先生は、この業態を「対面販売方式の伝統的小売市場(こうりいちば)」と書いている。
1986年の段階でもスーパーマーケットに押され、ジリ貧であった。
そして、この「小売市場」には、法的な定義、規制がある。
1960年の、小売商業調整特別措置法、である。
そしてその定義は、
同一の建物に10以上の小売商があり、政令で定める物品を売っている。
その品目は、野菜、生鮮魚介物。
池田先生は「伝統的」と呼んでいるが、それほど大昔からあるものではない。
多くは、戦後に開設されたものである。だからマーケットとかストアとか、外来語である。
だが、その勃興は大正時代。第一次大戦の後くらいに、公設から始まったと云う。まあ、大正期は、敵性用語ではなかったが。
1918年の米騒動も契機となった。
戦後、民設により、小売市場の建設ブームが起きた様である。過当競争になるくらいに。
そして、その状況を調整するため、1959年に「小売商業調整特別措置法」が制定された。
1952年から53年にかけて、西は京阪電鉄、東は紀ノ国屋が量販店を始めた。スーパーマーケットの嚆矢である。1957年には、ダイエーも創業している。
1964年の東京オリンピックの後、早くもスーパーマーケットは淘汰の時となり、全般的な消費の落ち込みから小売市場も衰退していったと云う。
正にダブルパンチである。
小売商業調整特別措置法により、小売市場は距離規制が敷かれた。大阪に於いては、既存の小売市場から700m以内への新規開設が出来なかった。
だが、スーパーマーケットはこの法律の規制を受けずに出店が出来た様で、それに規制が掛るのは1974年の大店法(大規模小売店舗法)の施行以降である。
当時の小売市場の乱立は、商品の需要、地主の利益、起業者の利益が一致したものだったと思う。
誰か、小向マーケットの記事で書いていたと思うが、当時でも入居保証金は50万円だったと云う。
商店街に入り込むのは難しい。小売市場は格好の起業の場であったと思う。
その後、衰退していく小売市場。それらの残照を取り上げていきたい。
私が良く行っていた小売市場は、10軒もなかった。定義から外れる。
準・小売市場と云うべきものかも知れないが、そんな呼称も変だろう。
それに小売市場と云うと、小売業の市況、販路規模の方を指しがちである。
そこで、商店長屋、長屋式マーケット等の呼称を、使って行きたいと考えている。