見えないダイヤの愛し方

人の目と同じ目をしてないという自覚が強くある。目の形も大きさも違うけど、目の性能というか出来というか…も違う。視力も色の識別も。どこまでが目のはたらきによるものかよくわかってないけど、とにかく、違う身体をもつ以上、僕は親や弟とも違う世界の見方をする。だからもともと他人であるあなたがたとはてんで違うわけだ。

朧げな記憶だが、小学生のころ行ったスキーで、友人のステッキが意図しないまま動き、僕の目を突いた。黒目の部分は外れていて、失明を免れたのは不幸中の幸いだった。しかし、それくらいを境にして視力が低下し始めた。いや、母親譲りの近視が時期的に発現しただけなのかもしれない。ともかくあの日の出来事は何故か夢みたいに白い靄がかかっていて本当にあったことか疑ってしまう。でも確かに僕の目はそんなだった。

視力は極端に悪くって、裸眼で生活しようものなら、スマホなんかとキスしてると人に思われかねない。今はずっと眼鏡をかけているし、まあ眼鏡が好きに落ち着いたのでよかったけど、コンタクトや裸眼でよく見える人とは違う世界を見てきたんだろうなとは思う。眼鏡をかけたとき、明瞭な世界は枠の内にしかないし。

眼鏡をかけてる人なんてごまんといるけど、僕の場合色覚異常もある(それもまあ、少なくないけれども)。僕の場合は比較的軽度のもので、よくよく見れば何となく分かったり、たまに分からなかったりする。ルービックキューブを解こうとしてオレンジと黄色の面だけ完成させられなかったことがあったけど、貼ってあるシールの少し凸凹がある方がオレンジ色だということを目を凝らして見出したので解けた。最近のルービックキューブはよく見えるので、僕の持ってたあれはユニバーサルデザインのものじゃなかったんだろうな。

そんな感じで、僕の目はまあまあダメダメだ。僕は目に自信が無い。目に自信が無いので、見ている世界にも自信が無い。何が綺麗で汚いか、とか見た目の優劣の基準があやふやなのだ。色や形のぼやけた、淡い世界を見ているよう。実際には眼鏡をかけているので、人並みに見えているはずだけど、やっぱり疑ってしまう。ダイヤモンドなどを見ていても、僕だけに違う色形、違う輝きが届いているんだろうと。

僕だけが見る世界こそがスペシャルだ!という強い気持ちで居られたらいいが、劣等感は抜けない。プライドはあるが、視力も「低い」といわれ、「色覚異常」が「色覚多様性」と呼び直されたところで変わらない。僕は目が「悪い」。

綺麗なものを綺麗だと思えないのは損だと言われたことがある。色覚異常のことを打ち明けるとたいがい怪訝な顔をされ、Google検索などして[色覚多様性者の見える世界]みたいなサイトの画像を見て、「寿司がこんな色に見えるの?」といっそう哀れまれる。なかでも「紅葉が全部緑に見えるんじゃない?」と言われた時は胸に重りがドサドサっと乗った。ぜんぜん悪気はなかったようなので咎める気は全くないけど。

咎める気は全くないけど、僕は紅葉を楽しむことが出来るってことだけは言い返せばよかったなと今思う。僕は秋の葉の色がこれまでと違うことにも気づけるし、その色を綺麗だと思う感覚もある。寿司だって美味しそうに見えている。食欲を減退させる色があるとよく聞くが、あれも人によって違うだろう。みんながうんざりしちゃう色を、僕だけは綺麗だと思っているかもしれない。

物に固有の色がある、というのは思い込みかもしれない。虫が見る花の色は、人間が知っているそれと違うんだって聞いたことがある。虫と人間とでは目の作りがぜんぜん違うから、目で受け取れる色の種類が違うのだ。違う色を見ていて、人間も蝶も花に惹かれているとしたら、それはそれで少し面白いけど。

固有の色どころか、物に固有の形すらなくなっちゃったとしたらどうだろう。色ほど単純な話じゃないと思うし、そんなことはすぐには信じられないけど、感覚によって捉えられる形にも差があるのかもしれないって思ってしまう。

要は、色も、長い短いしかくいまるいも相対的で、愛すべきは自分が見ている、線も色も曖昧な世界だけだったらいいなと思う。それは、僕の体内にあって、誰にも見えない、比べられない世界。

まだ僕は、自分の見ている世界に自信が無いけれど、少しずつ、そんな世界が綺麗に思える日も増えてきた。ダイヤモンドの輝きは、どう見えていても、万が一見えなくったって、心の中にある光なんだと。

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