勝手に茂木忍卒業カウントダウン企画 #2

さて2日目。12月30日。
僕のヲタクとしての礎である7期生がある中核を成していたSAISONのラスト対バンを見て1年が経ちました。はええ。

今日は「ロマンスかくれんぼ」で茂木さんを見つけてからのところについて触れていきます。

予期せぬメッセージ

何故ドハマりしたのかわからずも、そこから始まったばかりの「僕の太陽」公演に通うようになり、いよいよ「松井咲子さんが卒業したらヲタ卒」の宣言が、脆くも崩れ去ろうとしていました。

当時の学生なら誰しもがアカウントを持っていたmixiが「茂木忍推し」一色になりつつあったとき、ある一通のDMが届きました。

差出人は、高校時代に練習試合で対戦した、同じ県の野球部を教えていた20代のコーチ。


「茂木ちゃん好きなの?今度総会あるからさ、一緒に行こうよ」
「お久しぶりです!すみません、その日の券無いんですけど、xx月xx日ありますかね…?」
「その日もあるみたいだよ!」

こんな感じのやり取りだったと思います。
ライバル校の選手にDM飛ばすのすげえなと思いつつも、当時は「AKBファン」が山のようにいたので、ある種コミュニケーションの強力なツールだったのでしょう。

「高校野球引退したら、生誕委員をやるんだ!」と、謎すぎる目標を立てていたので、高校野球の入場行進のように、勇んで総会に参加することにしました。


2012年12月7日、幕張メッセ
日陰のクソ寒い一角に「茂木忍」と札のついた生誕ブースが存在していました。
近くの松井咲子ブースに荷物を置き、そのブースに近付くと、ほかとは明らかに一線を画すような明るく若々しい雰囲気を放っていたことを鮮明に覚えています。

そこで出会ったのは、揃いも揃ってクセが強く、Twitterの投稿が多く、そして茂木忍さんへの愛が深い人達ばかりでした。

※そのDMをくれたライバル校のコーチとは一度も会えなかったんですが。


激変した生活

そこでの出会いを経て、僕太の日は毎日ロビーへ行き、ヲタクとファミレスや焼肉へ行き…という生活が始まりました。
大学はもう決まっていて、高校の単位は取り終えている。あとは生徒会役員の仕事が少し残ってるだけのモラトリアムといえる時期だったし、死ぬほど時間があったので、毎日のように遊んでいました。
茂木さんのヲタクに限らず、小嶋真子さんのヲタク達にめちゃくちゃお世話になっていました。ボウリング行ったり、家行ってゲームしたり…。


さて、ロビーでの過ごし方といえば、Dreamin'girlsの立ち位置とRUN RUN RUNのフォーメーションでユニットを予測する変態芸。
もはやほぼ全員がほぼ全てのユニットをこなしていたので、やりがいがありました。
アレをやっていたヲタクが周りにたくさんいましたが、今思うとみんなすごかったなと思います。
ロビーでポジ予想を語るの、楽しかったなあ(遠い目)

あの頃18歳で、周りはだいたい22〜25歳ぐらいでしたっけ?
今、20歳ソコソコのヲタクを見る目って、当時自分が見られてた目なんだろうなと思います。
サシ飯があったりすると、よく出してもらってたりもして、「こういうのは自分が逆の立場になったときにしてあげればいいんだから」って誰かに言われました。

まあこのとき、ロビーに行かずに練習でもしれていれば、もう少しプロ野球選手には近付けたかもしれませんね。
プロになったら、選手名鑑の「好きな有名人」欄に茂木忍って書こうって思っていたんですが…。

そんなこんなでやってきた最初の茂木生誕。
推し補正なんて無い世界で、多くの茂木ヲタが干されてロビーで踊っていました。

ただ、この落選が後々大きな問題となるのです…。

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