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輪郭線上のアリア

 眼鏡を新調したら、物の輪郭がやたらくっきりと見えるようになった。
 街路樹、枝、葉、葉脈。ビル、窓、窓枠、庇。柱、階段、スロープ、手摺。信号機。街灯。立看板。車止め。ベンチ。マンホール。
 通い慣れたはずの路に、こんなにも沢山のものが溢れていたのかと、目が覚めるような思いだった。
 いつも立ち寄る自販機も、まるで線画を消し忘れたイラストのように輪郭が際立っていた。飲料を選びながら俺は、自販機の輪郭がいよいよ濃く浮かび上がって主張してくるのを感じた。
 思わず俺は、自販機の側面の一辺となる輪郭線を指で摘んでいた。

 台紙に載ったシールのように、自販機の輪郭線はペリペリと剥がれた。

 その手応えは不思議なほど気持ち良かった。線はよくしなり、引けば引くほどその先も連鎖的に剥がれてくる。輪郭線を失った自販機はそこだけ蜃気楼のようにぼやけ、溶け出しそうに震えていた。そして俺が側面と前面の半分以上の輪郭を剥がしたとき、

ぐるん

と突然、自販機の本体が裏返った。直方体の外形がひしゃげて搔き消え、靄に包まれたような小空間が一瞬だけ見えた。続いて大量の飲料の容器がダバダバと落ちて歩道いっぱいに広がった。

「ちょっと! ちょっと!」いきなり激しく肩を叩かれた。「あなた! 何をやってるんです!」
 振り向くと、ゴロゴロ転がる飲料に躓いてよろけながら、スーツ姿の若い男が俺を睨みつけていた。生真面目ぶった眼鏡の向こうの目が、憤慨に燃えている。
「あなた、なんでこんなことするんです? 次元を破壊する気ですか?」
「いや、俺、別に……」
 弁解しようとして、ふと、男がこちらに伸ばしかけた手の輪郭がやけにくっきりと、強く、浮かび上がっていることに気づく。

 俺はまた思わずその輪郭線を摘んでいた。

 ペリペリペリ。

 小気味良い手応えとともに男の手から輪郭線が剥がれていく。男の目と口がアルファベットのOの形に開かれた。

(続く)


#逆噴射小説大賞2021