意味が分からない話

「神様は乗り越えられない試練を与えないというのであれば、神様は彼の努力を認めなかったのか」という文章を見かけた。

キリスト教の学校で10年間教育を受けてきた私は、この言葉にムッとした。

これにしっかりと反論できる明確な言葉は出てこない上に納得する部分もあったのも事実だ。


昨日のある訃報から、様々な人の文を読み、様々なことを考え、様々な気持ちになった。

大衆の前では語らない人、名前を出さずに弔う人、ラブレターを書く人、自分の行動を悔やむ人。

全てにおいて共通しているのは「感情が載っていること」であった。

感情の乗せ方や程度に違いはあれども書き手の思いが詰まっていた。


「着てはった。」「言うてはった。」過去形で語るみんなの言葉が悲しかった。

私たちには触れる事ができない「絆」に何度も心を動かされた。

「大丈夫」と近しい人の一言に対してちゃんと、ちゃんと返信する人に尊敬の念を覚えた。


人の死はあまりにも突然だ。

「いつ死ぬかもしれないから全力で生きよう」なんていう映画の最後のセリフみたいなことは言いたくない。


私は、私が死んだのち、友人たちに良い思い出を語ってもらえる人になりたい。

そう強く感じた。


人の死は私に学びをくれる。

言い方が悪いと言われるかもしれないけれど、今回も学ばせてもらった。


あなたの日常が復活したら全力であなたの左側、サポートしますね。

あっちにいっても大酒飲みながらタバコ吸って阪神の話しててください。