教えるは学ぶこと
わたしには三人の息子がいる。それぞれ、似ているようで全く似ても似つかない。親とも似て非なるものだ。
一番上は長男ぽくなく、自由でマジメでパーリーピーポーだと自称している。ほんとうにそんな感じになってきた。
真ん中は次男ぽくなく、やはり自由だが自分独自の世界を強烈に持っている。何者にも流されず、マイペースだ。
三男は末っ子らしさもあるが、不思議と一番大物の感じである。やはり自由だが、他の二人とは観ている世界が違う。
いままで、息子に教えられることが多いと思っていた。子育てを通じて親も成長するって、こういうことかな、と感じたりしていた。
子供たちは冷静に両親家族の様子を見つめている。いま家庭がどういう状況にあるか、自分たちはこの後どのように振る舞うべきか?そうしたことを考えながら毎日を過ごしているようだ。
そのようなリアクションを通じて、なるほどなーと思っていた。そして、そう感じることで息子たちの成長も感じていた。
ところが、ほんとうのところ、これは両親は成長しておらず、息子たちに遅れをとっていることだと気付いた。はあ?と思うかもしれないが、気がつくとかなりのビハインドになっている。
大人とは成長する早さが違いすぎるからだ。
子供が誕生したところからお父さんお母さんも一歳、二歳と成長していく。初めの頃は大人の方が人生を少し早めに始めているので、かなりのアドバンテージがあり、結果的に両親が成長する早さの方がが早く見える。実際には子供の方が成長する早さが早すぎるのだが、動くことも満足にできないので、両親はそれを知覚することができない。
そうこうしているうちに義務教育の年齢になる。すると、運動能力だけでなく知識も劇的に向上する。そのうえ、人間関係のなかでもまれ、コミュニケーション能力も飛躍的に発達する。ここまでくると、もはや両親が持っていたアドバンテージはほぼゼロになっている。ここからは中学生になるまでに大きく引き離されてしまう。
我々大人が知識や知恵として身に付けることになったその場に子供たちがいて、その内容を理解することができたとしたら、その時点で既に子供たちが上を行くことになる。
我々が子供たちからほんとうに学ぶためには、教えなければならない。何を?自分が理解していること、身につけていて、常にアップデートし続けていることを、だ。これら先に人生を歩んできた間に蓄えた叡智を子供たちに教えることでしか、大人は劇的に学ぶことが難しくなる。
第三者としての子供、驚異的な天才としての子供、そして生徒としての子供。こうした特徴が合わさって、大人にとって最高の学びの場となる。彼らが観ているもの、聴いているもの、感じているもの。これら全てを我々は見つめ続けるのだ。
常に全力で子供たちと対峙しなければ、いつか子供たちは手を抜くようになる。親がザコになるからだ。それは両親が弱いんじゃない。子供が強すぎるんだ。
また今日も学ばせていただこう。息子たちから。