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音楽が誰かを救うことはない、誰かが音楽を救うことはあっても

こんなことを言うのもなんですが、挫けた時に音楽に救われたとかいうことって本当にあるんでしょうか。
少なくとも、わたしには経験のないことです。
逆はあります。これはそこらじゅうで起きていることなので、いちいち拾うことはないです。

突然の死

今年はなんだかおかしいですね。
何もおかしなことはないのかもしれませんが、わたしには変な年です。

プリンス殿下がご逝去なさり、つい先日は元SOFT BALLETの森岡賢 氏がご逝去と、立て続けに悲しいことが起きたのでした。

特にプリンスの方はテレビのニュースで知り、もう何が何だかというリアクションを家族の前で晒すという不可思議現象を引き起こすほどでした。

一方で、今年は始まってすぐに結構タフなことが続きました。
そんなとき、支えになったのはプリンス殿下の音楽でも癒しの音楽でもありませんでした。

支えてくれたのは自分自身、でした。
向き合うしかなかった自分は、思っていたよりずっと寄り添い、支えてくれたのでした。

音楽は多少の沈みには効果がもちろんあります。アッパーなトラック、イケイケなディスコサウンド、ガンガンくるロック…しかしどれも普通の状態で聴かなければ自分を痛めつけているだけにしかなりません。

実際にこのことに気づいたのは数年前で、本当にシンドいときに音楽は癒しを与えてはくれません。むしろ、疲れをもたらしたりします。
その証拠に、そうしたときは音量がかなり大きくなっているはずです。

それもそのはず、外界からの遠ざけたい事柄をかき消そうとするように音量を上げていくのですから。

もちろんそうしたことでかき消すことはできません。自分は大音量で好きなはずの音楽にボコボコにされるだけなのですから。

誰かが音楽を救う

一方、音楽はいつも誰かに救われています。沢山の人に聴いて欲しいと思ったり、自分スゲーと思い込んで公開される楽曲はいまやクラウドに溢れかえっています。わたしもそのうちの一人で、便利になったことをいいことに公開してたりします。

遠い過去に大衆の手に渡り、消費された忘れられた音楽も信じられないくらいたくさんあります。カタチはどうあれ、レコードやカセットテープ、CD、MD(まだあるのかな)、mp3、などなど…

そうした音楽はいつも偶然誰かの耳に入り、息を吹き返すのです。
プリンスが亡くなったときにレコードショップに追悼コーナーが設置され、ものすごく久しぶりにプリンスのサウンドを聴きました。いや、良いですね。

今でも通用する?いえいえ、する訳がありません。あくまでも懐古であります。

わたしはYAMAHA RX7という1980年代に販売されていたドラムマシンを未だに利用しています。これは当時の音が気に入っているからです。

YAMAHA RX7

これは常に最新のサウンドと、或いは遠い過去のサウンドと比較されつつ最新の嗜好としてアップデートされているからこそ、今でも利用しているのです。

とても今時のEDMやロックには追いつくべくもありません。最新のそれらは過去の音楽史を踏まえて誕生しているからです。

過去のサウンドをリファレンスしてない方がつくった?いえいえ、サウンドをつくるのはサウンドクリエイターだけではなく、その時その音を耳にした全ての人がつくっているのです。わたしはそう思っています。

だから、解釈が必ず成されるという点において、誰かがつくって公開した音楽はその場で息絶えようとしますし、聴いてくれた誰かがする評価で救われます。

最新型の何か

プリンス殿下にしても、森岡賢さんにしても、最新型の何かを追い求めていた点で共通するところがあります。クリエイターはそういう生き物なのでしょう。

アウトプットした時点ですでに過去になる揮発性の高い産物、サウンドと言うものは、常にクリエイター達の過去であります。過去であるが故に誰かの心模様にシンクロすることが出来ます。
しかし、常に死が迫っているため、誰かを救うことはできません。

今日もなんとか生き延びましたね。
明日も自分自身と向き合って、生き延びていきましょう。
音楽は自分を痛めつけないよう、用法容量を守って程々に。

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