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「殴り合って勝つほうが受け」に見るBLの政治性とフェティシズム

みんな元気に推し活してる?

わたしの主な生息域であるTwitterでは、たびたびBL作品好きの民による次のようなツイートが流れてくる。

わたしはこの方のツイート通りに「脳内で殴り合って勝ったほうが受け」派の人間なので大変共感度が高いです。わたしの好みは筋肉質で豪放磊落でちょっとアホで怖いものナシな陽のゴリラキャラが受けってやつです。エンゾウ先生の「ドラッグレス・セックス辰見と戌井」とかがバチバチに刺さるタイプ。ヒュ~

自分のTLだけかもしれないけど、なんとなくこういった、昔ながらのボーイズラブによくある華奢でフェミニンで中性的はほうが受けっていうのをひっくり返すような言説が時々流れてくるようになって、ゴリラ受け大好きな自分としては嬉しい限りです。ほんで、pixivで推してる作品の二次創作(ゴリラ受け・王道は当然のように逆)を眺めながら「殴り合いして勝ったほうが受け」論の政治性について考えたんで、ちょっと書こうかなって思いました。

社会的にマジョリティとされる異性愛カップルの場合、殴り合いをしたら…って提起はまず成り立たない。人間のメスってオスより腕っぷしが弱くできてるのがデフォだからね。男同士のラブファンタジーを描くボーイズラブでも、かつては華奢で儚げでフェミニンで女の子みたいな受けが主流だったわけです。古典的なとこだと風と木の詩とか。わたしがこの世界を知ったのはBLって名称が生まれる前、まだやおいとかJUNEとか呼ばれてた頃だけど、その頃のオリジナル作品や二次創作も、「背が高い・筋肉質」「喧嘩が強い」「経済的に豊か」「強引でぶっきらぼうで照れ屋だけど、誠実でいざとなると優しく頼りになる」というような、理想的な男性ジェンダー要素を持ったキャラは攻めに置かれがちだった。逆に受けがどういったキャラかといえば、「とにかく可愛らしい」「華奢・儚げ・弱弱しい」「心優しい・内気・泣き虫・感受性が高い(それらが分かりやすく表出している)」「いじめられっ子」みたいな。BL好きなら一度や二度は見たことがあると思う。

ジェンダーってのは「社会的性役割」だ。男はみんな上昇志向で仮面ライダーが好きで金を稼げるやつが偉くて、女の子はみんな気遣いができてピンクとスカートとマカロンが好き、みたいなやつ。社会的に(も、生物的にも)男として優秀そうなほうが攻めで、ちょっと劣った(あるいは女性的な)ほうが受けっていう文化はずっとあったし、今もある。そんで、わたしは商業や同人でBL小説を書いてるんだけど、商業の編集さんから何度か言われたことがあるのが「地の文は受けの一人称でお願いします」というもの。三人称でもいいけど、少なくとも本編を進める主軸は受けの目線でというのが主流らしかった。理由は、そのほうが読者が感情移入できるから。BLの読者ってほとんどが女性で間違いないと思うんだけど、女性は攻めよりも受けに感情移入して作品を読むっていう認識が、少なくとも発信側にはあるわけだ。わたしはそれを「恋愛において同じ受動的な(セックス時に突っ込まれる)役割として共感するだろう」ってことだと勝手に解釈してる。でもBL好きな女子って、多くは推しを受けにしてません? 推しが愛されてる姿が見たいってやつ。推しカプの部屋の壁とか観葉植物になってふたりを見守りたいみたいな、あれ。二次創作だと特にその傾向は強い気がする。もちろん推しを攻めにするBLファンもいるけど、BL読者が受けに共感して感情移入してるって説に、わたしは結構懐疑的だ。男に突っ込まれる側としての女性性を毎時自覚して、それを受けに投影しながらBL読んでる女性読者ってどれくらいいるんだろう? ちなみにわたしの場合は推しは受けに置くし、場合によってはリバも美味しいし、総愛されとかハーレムとかも好きです。どっちかというと、攻めに自己投影してるんですよ。

ここまで前提。

所謂女性的とされるジェンダーを付与された側が受けとされてきた時代から幾年、「脳内で殴り合って勝ったほうが受け」説に、4万を超えるいいねがつくようになり、いいねのすべてが賛同・共感でないにしても、かなりの割合でポジティブな受け入れられ方をしてるわけですよね。

男性優位かつ異性愛優位な社会の中で女として生まれ育ったBL好き女達が、物理的に殴り合うっていう原始的かつ明快な男らしさで勝利した(より男として優秀といえる)ほうを、自分達と同じ性的に侵入される側として認定するというのは、一体どんな意味があるんだろう。めちゃくちゃ穿った見方でわたしが考えてるのは「明確な男性性とホモソーシャルへの復讐と攪乱」。しょうもない注釈を入れておくけど、当然そのキャラに対する復讐じゃないよ。現状の社会で運用されてる男性性っていう概念への復讐と攪乱だ。

どういった要素で受け攻めを決めるかっていうのは、体制と反体制、マジョリティとマイノリティのどちらにより共感するかっていうことにも似てるんじゃないかな。男性優位と異性愛が普遍的で当然とされてきた社会の中で、権威的かつ男性的である存在が性交渉の際に女性の立場に立つというのは、まったくエスタブリッシュメントではないよね。筋肉受けとか、喧嘩に強いほうが受けっていう状態が包含する「反体制」っぽさが、わたしなんかはもう、これ以上ないくらいものすごく好きだ。既存の権威を攪乱して、狼狽する男性性に昂揚するというか。「男性的で権威的で強いほうが受容を強いられる側になること」に興奮してる節ってのは、絶対ある。今これ書きながら、学生の頃仲良くしてたBL仲間のお姉さんに、「身長が低いほうが攻めなんてあり得ない」って言われたのを思い出したぞ。彼女にとって、背が低い攻めってのは、サマにならないらしかった。

異性愛って「身体への侵入を受容するのは女である」という事実を前提としてる。性行為において女性身体がどういった役割を果たしどういった影響を受けるかを、女は経験的に、あるいは知識的に、また部分的には本能として知ってる。現状、性行為においてより重大な肉体的影響を受けるのは女のほうだ。望んでなくても内臓に新たな生命が宿り、腹が膨らむ可能性がある。わたしは女として、それってめちゃくちゃ怖いことだと思ってる。それは女と男がつがう際には覆りようがない。男の金玉からは子ども生まれないし。

そういった異性愛の前提を取っ払った先で、性行為の政治性を云々してるのが、「殴り合って勝ったほうが受け」みたいな論だ。それもものすごくラディカルで、めっちゃ反体制な政治性。超ロックだ。

ボーイズラブっていうファンタジーの中では対象カップルは当然男同士だ。両者に竿と穴がある。侵入可能性はイーブンだ。女と男の異性愛は侵入する側とされる側が決まってて、侵入される側は社会的劣位もついでに背負わされてる。そこに「強いほうが受け」派のフェチの根源があるんじゃないかなとわたしは考える。それが何かっていうと、身体的に同じスタートに立ってて、かつ生物的・社会的に優れてるほうが侵入される側に”貶められる“ことに萌えを感じるというフェチ。自虐的かつ「明確な男性らしさへの復讐」みたいな何か。身体的侵入と社会的優位性は別の話なはずなんだけど、現状それは不可分だ。少なくともわたしが認識する社会の中でそれらは分かち難く結びついている。多くの場合、女(受け)に与えられるのは「愛される」という受動的態度だ。強固な男性ジェンダーをまとった推しに、社会的劣位への降下と、愛されるという受容的態度を取らせたいという欲求が、「殴り合って勝ったほうが受け」論に賛同するBL好き女性の中にあるんじゃないだろうか。あるいは、男性ジェンダーの権化のような推しを、より能動的に愛したいという欲求が。

だからわたしは自分の推し(ゴリラ筋肉と腕力があってちょっとアホで陽の権化みたいな子)が、一見すると推しよりも劣位にありそうな攻めに優しく激しく攻められて泣いちゃってる姿に死ぬほど興奮する。男らしさから下りて、攻めを受け入れざるを得なくなってしまってる姿に。

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