見たり読んだり出来れば良いと言うくせに、結局書かねば体調を崩す。
ごきげんよう、ナガセです。
パズルゲーム熱が定期的に沸騰するんですけれども、久しぶりにズーキーパーを再インストールしました。
ただし、タブレットに。
スマホだと一日中やり続けてしまう……。
※ナガセには、自制心というものがインストールされていません。
寿命は有限なのに、ゲームのリトライは永久にOKな気がするのはどうしてなのだろうか。
前回ちょっと書いてから大体2週間ほど空きまして、その間に何してたんだよってまあ相変わらずの忙殺でした。
事務自体は生活費のための仕事なので割り切っているけれど、それにしてもあれこれとタイミングが重なったなあという忙しさ。
せっかくのポケモンスリープの成績もガタ落ちよ。
7月のまとまった休みが過ぎてから長編の下書きを始めだしたのだけど、やっぱりそっちの
「人に見せていない下書きの作成」
に引っ張られているなっていう感じはある。
お芝居見たり、サマソニ行ったり、もちろん読んだりでインプットは多数なんだよ。
ていうか、多分過多の状態。
タイトル通り、見たり読んだりさえ出来れば、普段の仕事を軍資金のためなんだからと割り切って何も考えずに続けていけるんじゃないかなと思ってしばらく過ごしてたんだけど、やっぱりだめだね。
わたしは書かないと体調を崩す。
薬飲むほどじゃないけど、なんとなく不調みたいな感じで。
短文をSNSに落としてみても、バランスが取れなくてしんどい。
自分が読みたいものは、短いものじゃないんだもん。
LINE公式アカウントに先週のお知らせでこの辺のことも書いた。
理想が高いと言われても、質も量もとりたい。
とりあえず、今は仕事を整理している。
生活費のためだけだとするならば、端的に言ってもっと効率良く稼げるものじゃないと意味がない。
でも、すべてを書くことにつなげるために生活を作り替えたいので、仕事以外もどうするのかって考えなくちゃなんない。
正直めんどくさい。
誰とも喋らずに、漫画読んで映画観て好きなもの眺めて、舞台やライブはしごして、ただただひたすらダラダラ趣味に浸かりきっていたい。
だけど、これは絶対やる。
だってさ、明日生きてる保証なんかないやんか。
まだ長編書ききってないから死ねない。
面白いかは知らんのやけど、頭の中の物語を全部使いきんないと、重くて成仏できひん、多分。
こうして突き詰めて考えすぎて、
「極論、元気よく生きていないと、理想の死体になった自分が望むタイミングで死のうなんて行動も取れない!! それはいやだ!!」
ってとこまできてしまった。
どうしていつも念には念を入れて悩むんだろう、わたし。
馬鹿なの?
※言うまでもなく、今死にたいわけではない。大変無駄に元気である。
ようするに、なんにも欠陥なく健康で生きるなんていうのは超絶無理難題なんだけど、寿命の数歩手前まではある程度の活きの良さを保った状態でないと意味がない。
ムズい。
これ、ムズい。
あとさー、話変わって、占いやら開運やらの要素のことになるんだけど。
「何かを作る自分には『欠け』がないと面白くないし、それを埋めようとすることに時間を費やすのはこの先も無駄ではない」
っていうことがようやく納得できた。
これはあくまでもナガセ自身に対してだけね。
いつも言うけど、他の人は知らん。
知らんし、わからんから、相手を尊重するんだわ。
で、話戻すと。
自己肯定感っていう単語が市民権を得て久しいですけれども、わたし、一見自信ありまくりな人に見えんのね。
急に何やねんって話だけど。
しょっちゅう職場で
「天才なんで、出来まーす」
「なんとかします、天才なんで」
「わたしが天才で良かったですね」
「だいじょうぶです、間に合わせます」
とはいう。
実際に
「大体どうにかしてる」
し、前例がないなら今作ったらええんやろ、文句ないやろってタイプでもある。
事務仕事、なんだかんだ好きだしね。
こういうことばっかしゆーてるから、自己肯定感は満タンですけどもそれがなにか? みたいに見えるんだと思うんよねー。
でも内心ではそんなに自分が優秀な人間だとは思ってない。
どっちかっつーと欠陥ばっかしじゃね? 出来ないこと多くね? って、頭やお腹が痛い時とかに浮かぶ。
(どんなタイミングだよ、もっとないんか)
だけど、それに対してこういうことだろうなーとなんとなくの対処というか結論があるのね。
ひとつは、わたしが自身をどう評価してるかを他人と揃える必要はない。
つまり、自分のことを何故生まれてきたのかわからないくらいゴミだと思っていても、他の人はわたしをうっかり天才だと思っているかもしれないし、無論その評価を拒絶しなくていい。
それはなんでかっつうと
「駆け落ちしたいくらいの好きな人以外から、根拠がない・主観的なことを言われても、別にそれはその人の自由」
って思ってるからなんだけど。
あなたはわたしに対してどんなことを感じたり考えたりしてもよくて、それを言う自由がある。
ただし、それがわたしまで届くかは約束されていないよという感じ。
ちなみに、いまのところ駆け落ちしたいくらいの好きな人は、ナガセの日常にはいない。
例として、わたしが仕事でなにかしらミスをしてそれに対して指摘を受けたのであれば、それは繰り返さないためにも聞き入れるべき。
だけど、そこから派生して
「だから結婚できないんだよ」
なんてことを言われたら、
「〇〇さんは、仕事出来るから結婚できたんすか」
or
「〇〇さんは、仕事出来なくても結婚できてる例があるよって見本を身を持って教えてくださってるんすか」
くらいのことはぶん投げ返す。
だって、少なくとも今わたしがやってる仕事に、未婚既婚は無関係だから。
たとえ相手が役員クラスであっても同じことを言う。
先にやってきたん、そっちやからなと。
だいぶ逸れた。
んで、もう一つ。
これがさっきの欠けがどうのこうのにつながるんだけど。
「何かを作る自分には『欠け』がないと面白くないし、それを埋めようとすることに時間を費やすのはこの先も無駄ではない」
これね。
何かを作るには、欲望がないといけない。
それが欲しいだとか、見たいだとか、食べたいとか。
今まで欠けがないと面白くないと思えなかった、ピンとこなかったのは、
「完璧な人間、欠点がない人間が存在しないからこそ、あえてそのような存在に近づこうとしたら何かが起こるのではないか。それを自分がやったら面白いんじゃないか」
と自分に期待していたからだと思う。
昔の自分の小説でも書いたけど
「完璧だったら生まれてくる必要がない」
とわたし考えてるのね。
なんでかわかんないけど、これは物心付いたあたりからずっとそう思ってる。
わざわざ他者と衝突することも、なんだかよくわからないけど惹かれる事象に巡り合う刺激も、はじめから完璧なんだったら必要がない。
けれど、人は完璧でないものとして生まれてくるし、罪を犯すこともあって、反対に誰かに手を差し伸べることもある。
歪なんだよね、結局。
だから、わたしの場合は何かを書くことで、さっきの
「完璧な人間、欠点がない人間が存在しないからこそ、あえてそのような存在に近づこうとしたら何かが起こるのではないか。それを自分がやったら面白いんじゃないか」
を文章を書く自分に対して長らく試みていたんだと思う。
そして、それで何も得られなかったかというとそんなことはなく、欠けているところがないと埋めようとしない=動きがない=結局面白くないんだから欠けがある今の自分が書く文章がちょうどいいんだなってことがわかった。
長年費やしてそれかよって話なんだけど。
「何かを作る自分には『欠け』がないと面白くないし、それを埋めようとすることに時間を費やすのはこの先も無駄ではない」
死ぬまで続けんだから、今の欠け具合は今だけなんだよねぇ。
だって、生きてると埋まるわけじゃん、そのうち。
第三者の一言でなのかもしれないし、立ち読みした本の一節によってかもしれないし、日の出の美しさに心を打たれる瞬間に埋まるのかもしれない。
そうなると、今日の文章は明日にはもう書けないかもしれないんだな。
おお、貴重である。
わたしはこの先わたしを完成させるために生きていけば上出来なんだわ、きっと。
自分の欠けについてどん底まで落ち込んだりする日も来るだろうけど、スレッズで書いたとおり、これでもう十分だ。
さ、明日も明後日も、なんか書こう。
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じゃ、またね!(書いたら頭痛が消えたナガセより)