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【掌編】ドライマティーニ

人が来る前提じゃない部屋に初めて招き入れたのが、彼だった。

ペットボトルを定期的に捨てるという行為がどうしても出来ず、その手前の作業で止まってしまって、いつも数袋がベランダに山積みになる。
ラベルを剥がし、キャップを別の袋に投げ込み、中身を水で濯いで、カゴに立てかけておいてしばらく乾かす。
そこまでは出来るのに。
そんな事は出来るのに。

「なんで捨てないの、これ」
彼は問う。

そりゃそうだ。
こまめに捨てていたとしたら、一人暮らしの部屋に溜まる量ではないのだ。
「出来ないの」
理由を説明することも億劫で、それだけ答えた。

「帰るときに持って降りようか」
優しいな、この人。
たまたま一緒に飲んだだけなのに。
しかもわたし、ノンアルコールだったから酔ってないのに。

「始発動く頃には帰るよ」
「うん」
ペットボトル以外は散らかっていないのが、不幸中の幸い。

「なにか飲む?」
「水がいい」
「もうお酒いらないの? 缶ビールかチューハイならあるけど」
「もういいや、飽きた」
一人で飲みに来るような人間が、お酒に飽きるってあるんだろうか。
開けようとしていた冷蔵庫の取っ手を何となくなぞり、手を離した。

「今日、どうして飲みに来てたの」
「あなたは?」
っていうか、名前は? と聞きたかったけれど、やめた。
「今日は一人でも相手がいてもどっちでもよかったんだよ。昼から飲みたかったから」
どうりで豪快にビールを流し込んでいたわけだ。
わたしが座ったときには、もう何杯か喉の中に片付いていたんだろう、きっと。

「お姉さんは? 名前、聞いていい?」
「ミホ」
嘘だけど。

「ミホさん、今日なんであそこ来たの?」
「内線が来なかったから」
「内線?」
「会社にね、好きな人がいるの」
「へえ」
「仕事の連絡が多いんだけど、だいたいほぼ毎日その人の内線がきたらやる業務があって。たまにそれがない日があるの。そういうときだけ行くの」

「じゃ、今日はなかったの?」
「うん」
「悲しい?」
「どうして?」
「声聞けなかったってことでしょ」
ああ、そういうことか。

「ううん、悲しくない」
「なんで?」
「だって、片思いしたくてしてるから」
「どういうこと?」
「付き合いたくないの、その人と」
「既婚者?」
「ううん」
「じゃ、なんで」
「片思いでもしてないと、暇だから」
彼は、コップを置いて控えめな笑い声を上げた。

「そんな理由で片思いしてる人、初めて見た」
「だって慣れちゃったら暇じゃない、仕事なんて」
言っていることは分からなくもないけどと、勝手に自分でキッチンまで水をお代わりしに行った。
順応性が高いな、この人。

「いつもビール飲むの?」
「オレ?」
あなた以外に誰がいるのよ。
「うーん、ビールが好きだけど」
「だけど?」
「マティーニが一番好き。ヘミングウェイのに出てくるやつ」

ヘミングウェイ。
読んだこともなければ、会話に出したことさえない。
「読書も好きなの?」
「うん。飲みながら読むのがいい」
「へえ」
さっき自分に向けられた相槌と同じ音を返してしまった。

「ヘミングウェイのにでてくるマティーニって、何か違うの?」
「ジンとベルモットの割合が違う。ドライマティーニってジンが4で、ベルモットが1なんだけど、ヘミングウェイのは、15対1」

それ、ホントに飲めるの?
適当なこと言ってない?
口は動かさなかったけれど、頭の中は動いた。

「飲めるよ。そんな顔しなくても」
よほど不可解そうな表情を浮かべていたであろうわたしを見ながら、また同じような小さい笑い声がこぼれた。

「ミホさん、お水飲まなくて平気なの?」
「え、全然」
「強いんだ」
「ううん、全然。だって、今日ノンアルしか飲んでないから」
「そうなの?」
「うん」
「なんで? バーに来といて」
「バーに行ったらノンアルじゃだめなんてことないじゃない。いいお客さんでいればいいんであって、酔っ払っても酔っ払わなくてもOKでしょ」
彼は、考えたこともなかったという顔をしている。

「酔っ払うのは義務じゃないってことか」
「そうだよ。お店に行ったらお客がやんなきゃいけないことは、注文をすること、残さないこと、お金をきちんと払うことだよ」
「ミホさん、面白いね」
「そう? そんなこと滅多に言われないけど」

立ち上がって、電気ケトルでお湯を沸かした。
喉は渇いていないんだけど、紅茶が飲みたくなったから。
「なんか温かいヤツ? オレも欲しい」
「うち、紅茶しかないけど」
「うん、全然いい。コーヒー飲まない人?」
「外で飲むって決めてるの」
「なんで?」
「カクテルとコーヒーは、人に作ってもらうほうが美味しい気がするから。反対に、紅茶はガブガブ飲みたいから家で飲むの」
「やっぱミホさん面白いね」
「そう?」
何が面白いのか、さっぱりわからない。

「酔っ払うのが義務じゃないっていうとこ、あとペットボトル捨てらんないとことか」
「どういうこと?」
あんなこと、ちっとも褒められる行為じゃないのに。

「だってさ、あんなことになってんのに、初対面でしかもわりと酔っ払ったオレのことは拾ってくれたでしょ。ここ、あんま人は入れてないんじゃない? 誰かがしょっちゅう来る部屋の人だったら、多分なんとかしてるんじゃないかと思うんだよね、あのペットボトル」
「いざとなったら、すぐ警察に突き出すよ」
「それはまあ、そうしてくれてもいいけど。オレだってやばそうな人にホイホイ着いていくとこまでは酔ってないよ」
小さめの笑い声に乗った軽い返事がやってくる。

「そんで、ペットボトル捨てるのはなんかの理由で出来てないわけだけど。でも、捨てる直前のことまでは出来るわけでしょ。この人は何の前触れもなく連絡断ったりしなさそうだなあと思った、ここに着いてから」
「ペットボトルだけでそんなところまで考えるの?」
「好きなんだよ、人間観察」
「ふぅん」
二人分の紅茶が出来上がった。

「どーぞ」
「いただきます」
律儀に手を合わせてカップを口に運ぶ様子は、もうちっとも酔っていなさそうだ。

「なんか毛布とか貸してよ」
「ベッド使っていいよ」
「ミホさん、寝ないの?」
「うん、眠くないから多分始発くらいまでだったら起きてると思う」
「じゃあ、オレも起きてる。なんか喋ろうよ」
「例えば?」
「ミホさん、ご趣味は?」
「お見合いじゃん」
「さっき会ったばっかなんだから。お見合いみたいなもんだよ」
「映画鑑賞」
「何観るんですか?」
「っていうか、そっちの趣味は?」
「あ、オレ、名前言ってなかったっけ」
しまった、聞くつもりなかったのに。

わたしの名前を発する唇と、さっきの紅茶を飲もうとしたときの唇は、同じものなのに。
自分の名前を発する彼の唇は、何となく違う生き物のそれに見えた。

(了)