僕のはなし。

令和六年三月十五日。武蔵野美術大学造形学部空間演出デザイン学科を卒業した。二十二年という短い人生の中だけれど、僕の中ではとても大きくて毎日が刺激のある四年間の日々だったと思う。その記憶が褪せない内に少し、記録を残そうと思う。

僕の中の無意識の規則


幼い頃から絵を描くのが好きだったからなんとなく美大に行くことを決めて、ファッションコースのある空間演出デザイン学科に進学した。
入ってみると考え方も生き方も全く自分とは違う人たちで溢れていた。自分に素直な人、魅せるのが上手い人、自信のある人。僕が見てきた世界がものすごく狭く、惨めだと思った。美術大学に通う覚悟もなく受験し、入学したことをものすごく後悔したのを覚えている。
そして美大に通いながら、僕は自分の中にある"無意識の規則"が自分を縛っていることに気がついた。先生がダメと言っているからやってはいけない。周りがしているからする。普通の公立の小中高を卒業した僕は
"自分自身"よりも"全体"を意識して自分の行動を決めていた。
そして今まではそのことに気づいてもいなかった。


僕の抱いた違和感

高校を卒業して武蔵美への入学が決まった頃、ひどい鬱状態だった上に、コロナが重なって僕の大学生活は理想とは真逆の方向へと向かった。

一学期はオンライン授業が続き、夏休みが明けると遂に学校に通えるようになった。友人もでき始め、遊んだり、課題の話をしたり、そんな日々を送っている中で、なんとなく違和感を覚え始めた。それは小さなことだけれど、僕にとってはとても大きな違和感だった。
好きな音楽について話したり、地元の話や家族の話、最近行った場所、やったこと。みんなが特に何も気にせずに話をすること。
僕は相手の興味のある事、何が嫌いで何が好きか。それを判断してから相手に合わせて話をすることを無意識に行なっていた。

みんな、自分のために自分を生きている。

そう思った。
少し大袈裟な言い方だが、自分の好きなことを堂々と話せない自分に気がついてすごく惨めだった。

けれど美大に通っていると必ずある講評。普段話している小さなことが作品にものすごく反映されているし、僕が相手に話した事も影響していると感じることがあった。
月に一回あるこの講評、言ってしまえば、自分から話題を提案する行為が相手の様子を伺って行動を決めていた僕には本当に怖くて、講評前は毎回病んでたと思う(笑)

そんなことを考えながらなんとか一、二年生を終えて三年生になった。
空デのカリキュラムは三年生になると学科内にある四つのコースに分かれて制作を行う。元々ファッションコースに行くために入ったけれど、なんやかんやあって結局インテリアコースに行った僕は、僕の中にある無意識の規則と正面からぶつかることになる。

僕の第二の大学生活

元々ファッションコースの友人達と仲が良かったため、インテリアコースに友人と呼べる人はほとんどいなかった。図面なんか引いたことがなかったし、模型のもの字も知らなかった。
だから一つ目のインテリア課題を終えた時、僕は今までとは全く違う環境を前にして、人間関係もスキルも新しく身につけて行かなくてはいけない事実に絶望した。(コースごとに雰囲気が全く違うところは空デのいい所でもある。)
別の大学に入学して、新しく大学生活を始めた気分だった。


特に、僕が感じた他のコースとの違いは課題設定が明確で、リサーチとプレゼンを徹底的に行い模型を完成形として講評するところだ。
今までの課題のように講評形式の自由度が高くないが故にスキルの差が明確に出るし、センスがより可視化されて試される場所だと課題をしながら考えていた。(センスが試されることは他のコースでも変わりないが。)

三年前期の課題を終えるとゼミに入ることになる。そこで私はファッションゼミに戻ることも考えたが、少し挑戦をしてみようと空デの中でも厳しいと言われていたインテリアデザイナーの片山正通教授が率いる片山ゼミに入ることにした。

僕のゼミ

ここからは怒涛の日々で、週に一回プレゼンをしてブラッシュアアップ、そして次の週にまたプレゼンと、発表を毎週行なった。
もちろんプレゼンでは自分の興味のあることや普段考えていることを相手に伝えられるように言語化し、魅力を伝えなければならない。
自分のスキル不足や計画性のなさを身に染みて感じたし、これまでの月一回来ていた講評前の鬱が週一回の頻度に変わってしまった(笑)

特に三年生最後のアイデンティティ課題は本当に辛かった。
自分の背景、将来像から自ら課題を設定してクライアントから想定立地から全てを自分で決めて行う。自分をリサーチしてプレゼンする、まさにアイデンティティ課題だ。

自分の好きなことに自信を持って好きということができなかったし、自分が良いと思ったものを伝えると言っても、自分が良いと思ったものが本当に良いのかが解らなかった。
もちろんそんな状態で課題をやっていたので講評ではボロクソに言われ、特にアイデンティティ課題という自分についてのプレゼンだったこともあり、これ以上にないほどひどく落ち込んだ。(自分の存在自体が恥だと思うほどには落ち込んでました。泣)

僕のズル

そんな中で四年生になり課題をやってもやはりうまく行くわけもなく、四年生の六月、自分に出来ると騙しながらやっとのことで動かしていた心身にとうとう限界がきてしまった。課題文を読んでも文章を理解することができず、集中力がなくなり、人と会うこともご飯を食べることもできずに学校に行けなくなって、全ての授業を無断欠席した。
抗うつ剤を飲んでも全く治る気配がなく、冗談抜きで何もできなくなってしまった。
学校を休学するか。ちょっと休もうか。親はそう言ってくれたけれどその時は全てのことに対して自分で決断することが怖くなっていて何も決めることができなかった。

とりあえず、今の状態を学校側に伝えないといけなかったから片山ゼミの助手を担当している方になんとか連絡をした。(この時に送った文章もめちゃくちゃだったと思う。)

「散歩でもしながら少しお話ししない?」

返事が来た。学校をサボってずっと何もしてない僕に怒りもせずに散歩しようと言ってくれた助手さん。この言葉に少しだけ体が軽くなった気がして、家から出ることができた。学校に行くとゼミの授業が行われているにもかかわらず、助手さんは学校を一緒に散歩してくれて、僕の話を聞いてくれた。

散歩をしながら、
授業が行われているその教室を指して、「あの部屋で行われている事はこの世界の中で、すごく小さな世界でしかないんだよ。」と助手さんは言ってくれた。「今必要なのは課題とかは置いといて、休むこと。休むことっていうのは、体を動かさないで寝てることではなくて、自分が少しでもしたいと思うこと、心が動くことをやるっていうこと。

僕は、僕の中にある無意識の規則を破り、ズルをしたという罪悪感を酷く覚えてしまう。学校に通いながら課題をやる日々の中で、遊びに行ったり、休んだり、そういう、自分にとっての楽しみを、楽しむことを許すことができなかった。けれど、この言葉にその無意識の規則を破ったところで誰も罰しはしないし、もっと自分の思うままに生きようと思うことができた。
そして、一番大きな僕の中での変化は、その無意識の規則を無くすのではなく、無意識の規則があることを許して、認めて、それが自分なのだと受け入れる事だ。

それから、本当に少しずつだが、体調も良くなり、色んな人に手伝ってもらいながら、ついに卒制まで終えることができ、令和六年三月十五日、武蔵野美術大学造形学部空間演出デザイン学科を無事卒業した。

僕のはなし

助手さんと学校を散歩してから僕に対する僕の受け止め方が変わった。自分のコンプレックスの部分を変えようとするのではなく認めること。そんなにすぐに自分を変えることなどできないし、それをどう活かすかにシフトチェンジすることにした。

もっと自分中心に生きていこうと思うことができた。

確かに今の日本で生きていくには無意識の規則はすごく大切だと思う。なくなってしまったら、日本の秩序や治安の良さなどはきっと消えてしまうだろう。

だけれど、僕は日本の中で大きな存在でもなく、たった一人の学生であったし、この意識を持ったまま日本の中で個人としての役割が消えてしまうくらいなら、その規則を破ってでも、生きていきたいと今は思う。

言ってしまえば、日本の一般的な社会とは隔離された表現の自由が確保された自由気ままな武蔵野美術大学。
そんな環境にいてもなお、僕の中には無意識の規則があって、その苦しさに気づき、解放されるのに四年かかった。
だからこそ周りの環境の重大さに気づいたし、これから自分がどこでどのようにどうやって生きていくのかについて考えることができた。

まだまだ自分の中ににある無意識の規則には囚われていくし、一生消えることはない。だが、それが時にはアイデンティティにもなるし、時にはその無意識の規則を武器にできる時があるのかもしれない。大事なのはそういった自分の思うコンプレックスを変えようとするのではなく自分自身が認めること。
時間をかけてでもいいから、少しずつ自分を受け入れること。


こんな話は今までもどこかの誰かが散々言ってきたであろう。けれど四年間、武蔵野美術大学で得たこの経験を、大学を卒業した今、どこかに残しておくことが僕が必死に生きた二十二年間の証だと思ってこのメモを残すことにした。

絵を描くことが好きで、人と話すことが好きで、辛いものが食べれない、なんてことないたった一人の学生より。


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