0と1の間で行われるラジオ体操

自由になりたい。しかしながら、自由がどこにあるのかが分からない。

中学生の時、学校には所謂不良がいた。彼らは私の目から見ると大変自由に見えた。服装や時間、態度などを厳しく縛り付ける教師という存在を相対化していた。会いたい時に会いたい人間とだけ会い、行きたい時に行きたいところにだけ行く。そんな感じで生きる様が羨ましいとだけ思いながら、私は制度の敷くルールにできる範囲で体を慣らしていった。数年前、彼らのうちの一人は銅線を盗み逮捕された。詳しい経緯はわからないが、逮捕されること自体には自由の限界を感じる。国家が敷くルールによって身体を拘束されてしまう、学校の先生に何週間も狭い部屋に閉じ込められることはないが、現行の法制度では警察組織は身体を拘束することが可能だ。それでも13歳から15歳くらいのあの瞬間だけでも自由の輝きを持っていた事実は私にとって変わらないし、眩しい。

ボーカロイドの曲らしいボーカロイドの曲が作れないものだろうか。今そういう曲の制作に着手している。少し前に、所属しているボーカロイドサークルの作曲コンテストに参加し、このままじゃいかんと思う瞬間があったので自分の拘りを捨てる方向にシフトしているのだと思う。いつ出来上がるのか、クオリティはどうなのか、はたまたどこかで頓挫してしまうのかもわからない。とりあえずBPMを200近辺にしてうろうろ歩いている。感覚としては手作りのコカコーラをつくっている様な気になる。Kaito Tomita*の動画でボカロ曲の特徴に過剰性を挙げており、これは納得するものがあった。ただ具体的にどうすればいいのか分からない。その状況だけこうして書き留めている。

秩序の中に居ながらにして、果たして今のままでいいのかと疑問を持つことがある。冒頭の不良たちに対する羨望はあれど、体制と反体制の二項対立に甘んじず両側の間にある曖昧な部分を見つめること。ラジオ体操に参加しながら、本当は毎日12時まで寝過ごしてもいいんだよなと思うような状態。千葉雅也*曰く、人間の過剰さは脳神経の発達のためであり、他の動物に比べて遥かに認知のエネルギーを余していると言う。クリーンな条件を与えられても、すごい勢いで走り回ったり、泣き叫んだり、意味もなく紅白帽を着脱し続けることができるような場所があるといいよね。

*Kaito Tomita, TOOBOE『錠剤』をプロの音楽家が分析したら……【チェンソーマンED#4】,https://youtu.be/W9WIs74BPpU?t=97

*千葉雅也, 現代思想入門, pp120, https://amzn.asia/d/iUrR6Kq

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