「該当馬なし」という矛盾からの思索


まえがき

去る1月9日、2023年度のJRA賞が発表された。内訳はともかく最終的な結果としては妥当な線を行ったのではないだろうかと思っているし、私個人として受賞馬を取り上げてどうこう言うつもりも無い。私が票を持っていたとしてもせいぜい最優秀スプリンターで悩むくらいだったと考えている。

さておき、この手の「納得の受賞馬」が多い年は得てして「物議を醸す票」の騒がれ方も他の年より強い気がする(あくまで主観なので実際にそうかどうかは定かではない)。私がTLで見た中で特に騒ぎになっていたのはこの6部門・4頭だ。

  • 最優秀3歳牡馬: シャンパンカラー(1票)

  • 最優秀3歳牝馬: ブレイディヴェーグ(1票)

  • 最優秀4歳以上牡馬: ドウデュース(1票)

  • 最優秀4歳以上牝馬: アイコンテーラー(2票)

  • 最優秀マイラー: シャンパンカラー(1票)

  • 最優秀ダートホース: アイコンテーラー(1票)

この記事の主旨を逸脱するので、これらの票、というより特定の馬に投じられた票を論うことはしない。とりあえず投票者にはその馬をその部門で「特に優秀な成績を収めた競走馬」と認めるだけの理由があるはずだし、仮にそれが無いような票だったとしても「Aが最優秀××に相応しい」という文章自体は破綻せずに成立するからだ。

だが、これらと一線を画す、というより同じ土俵に並べることすら許されない票がある。それが「該当馬なし」である。
既にJRA賞の発表直後に散々苦言を呈したし、大部分の内容はその焼き直しでしかないので人によっては見飽きたと思われるかもしれないが、一筆したためておくことにした。お付き合いいただける方はお付き合いいただければ幸いである。

混沌の路線

最初に書いておくと、「該当馬なし」の票が出現した部門は3つ。最優秀スプリンターに295票中43票、最優秀4歳以上牝馬と最優秀障害馬に1票ずつだ。

残りの2つはともかくとして、「1,400メートル未満の競走における最優秀馬」への賞であるところの「最優秀スプリンター」がこんなことになった原因は想像がつく。JRAのGIを勝った2頭は両方とも年間を通して当該路線を走っていたとは到底言い難い。ファストフォースは高松宮記念を最後に引退したし、ママコチャも北九州記念に出走するまでは「最優秀マイラー」の対象になるようなレンジで走っていたからだ。GI勝ちこそ無いが、「当該年度」という観点で見た場合に、年間を通しての「1,400メートル未満の競走」への出走数で見ればともに2戦だけの2頭とも他に票を得たナムラクレアやリメイクに及ばないのは事実である。

しかし思い出してもらいたいのは、この賞は良くも悪くも「最優秀スプリンター」だということである。他の賞にしたってその部門における「最優秀馬」を選ぶという点では同じことだ。その「最優秀馬」を選ぶのに「該当馬なし」というのでは論理性を欠いていると指摘されても仕方無いと考えるべきであろう。

「最優秀」は「優秀」ではない

前置きが長くなったが、結局のところ「該当馬なし」が問題である理由はただ一つ、この賞が「最優秀」という名目を掲げているからに尽きる。

アンドレア・モーダというF1チームがある。通算成績は9回出場してリタイア1回・予選落ち8回だ。このチームの「ベストレース」は何だろうかと問われたところでそもそもまともなレースをしていないと通算成績を見ただけで誰もが思うだろうし、私もそれを否定する術を持たない。

しかし、「アンドレア・モーダの良いレース」は無いにしても「アンドレア・モーダが最も良い結果だったレース」はあるわけで、それを問われたら恐らくほぼ100%の人が唯一決勝レースに漕ぎ着けた1992年モナコGPを挙げるだろう。78周中11周リタイアの何が「良い」結果なのかと言う人も同じくらいいるだろうが、他のレースは全て予選落ちしているのだからこれが「『最も』良い結果」と言って差し支え無いはずである。

前置きが若干長くなったが、つまるところ「最優秀」というのはそういうことなのである。たとえ「優秀」な馬などまるでいなかったとしても「最も優秀だった馬」はいるのであり、「最優秀」という名目に対して「該当馬なし」というレスポンスを返すというのは、繰り返しになるが論理性を欠いていると言われても仕方無いだろう。

ここでもっと噛み砕いてみよう。
「2023年のスプリント路線で素晴らしい成績を残した馬は?」
こう問われた時、これを読んでいるあなたはどう答えるだろうか。何らかの馬の名前を出すかもしれないし、「去年のスプリント路線は小粒で、どんぐりの背比べのような有様だった」と切り捨てる人もいるだろう。「素晴らしい成績」と思う馬がいなければ後者のような答えになったとしても何もおかしくはない。「中央競馬の発展に特に貢献があった馬」を選出するJRA顕彰馬の投票はこの論理だから、あちらの「該当馬なし」は妥当かはともかく論理性の有無の面でJRA賞と同列に並べるのは控えるべきだろうし、並べてはいけないと思っている。もっとも顕彰馬は顕彰馬で、自分が票を投じる先が対象であるかどうかの確認すら怠るような、選考に値する見識を持っているか極めて疑わしい記者が少なくとも昨年は3人いたことが明らかになっているのだが、それについてはここでは掘り下げない。

閑話休題、次。
「2023年のスプリント路線で『最も』素晴らしい成績を残した馬は?」
こう問われた時、これを読んでいるあなたはどう答えるだろうか。少なくとも、即答出来るか数分考え込むかによらず、最終的には何らかの馬が答えとして出てくるはずである。この問いに対して「そんな馬はいない」と返したら多くの場合においておかしいと思われるであろうことは何秒も考えなくても明らかだろう。だが、現実にJRA賞の投票においてはこの「『最も』素晴らしい成績を残した馬は『いない』」という投票が罷り通ってしまうのだ。

問題の根源は何か

ここまで色々書き連ねてきたが、はっきり主張しておきたいのは、この問題は投票する側だけの問題ではないということだ。結局のところ「該当馬なし」という選択肢が罷り通ってしまう制度にこそ問題があると言うべきだろう。

既に述べてきたようにJRA賞の部門賞は「最優秀馬」を選ぶものである。この相対評価の看板を掲げながら、一方では「受賞馬として適当と認めるものがないときは『該当馬なし』と記入するものとする」(日本中央競馬会JRA賞表彰規則第2章第3条の2)と規則に明記するとは矛盾としか言いようが無い。当時もツイートしたが、この賞が「最優秀」という名目である限り、「該当馬なし」という選択肢の存在自体がその名目に真っ向から中指を立てるに等しい。選択肢があるからと言ってそれに甘えるような真似をしたのべ45人の投票者も投票者だが、そもそもそんな選択肢を用意する側にも問題があるのだ。

この賞が「優秀」という名目であれば私はこんな文章を長々と書いていない。「優秀スプリンター」の「該当馬なし」という票が半数近くを占めようが本当に最多得票を得て「優秀スプリンター: 該当馬なし」という結果になろうが、その論理に矛盾は無いからだ。

つまるところ、「該当馬なし」という選択肢を設けながら「最優秀」という名目でタイトルを運用していること自体がそもそもの間違いなのである。この矛盾を解消するには「該当馬なし」という選択肢を廃するか、もしくは賞の名目を「優秀」なり何なりの絶対評価にすげ替えるか以外に道は無い。

置き去りの名目

ただ、最終的に「選択肢を用意する側が悪い」ということになるとはいえ、問題はそこだけではない。今度の最優秀スプリンター部門の投票結果に対する反応からも伺えるが、どうも「最優秀」という名目が飾りと化して置き去りになってはいないだろうか。

というのは、1月9日の夜(日付が変わってからも含めて)、「該当馬なし」でツイート検索すると「最優秀スプリンターに『該当馬なし』は妥当」という趣旨の投稿がまあまあ散見されたからだ。言いたいことはもうお分かりだろう。ある程度の人数の人間は、「最優秀」という名目において該当する馬を「いない」と断ずることの矛盾に気づかないか、もしくは黙殺したまま、「自分の基準における『優秀』な馬がいない」という理由をもって「『最優秀』がいない」という矛盾を肯定してしまっているのだ。「最優秀」という名目が「優秀」というものありきの看板でしかなくなっていると言われても仕方無いだろう。

また極めて信じ難いことには、大衆だけならいざ知らず、実際に票を持っている記者にまで「最優秀」という名目を忘れているとしか考えられない理由付けを語る者がいる。

賞が発表された当日の夜、投票内容をツイートしている記者がいたが、件の記者が「ファストフォースもママコチャもGI以外の実績が足りず、ナムラクレアや*ジャスパークローネもGI未勝利ではと思ったので『該当馬なし』にした」というような趣旨の主張をしていて私は呆れ返ってしまった。散々繰り返しているように、この賞が「最優秀」である限りその論理は成り立たないのだ。

当該人物が翌日になって「『該当馬なし』にしたかったわけではない、だから阪神カップのママコチャは応援していた」などと発言しているのを見つけた時にはこれ以上無いほど綺麗に「開いた口が塞がらない」という感覚を味わった。サラッと書いたせいで見過ごした人の方が多いかもしれないから今一度「最優秀スプリンター」の定義を確認しておくが、同部門は「1,400メートル未満の競走における最優秀馬」を選定する部門である。

何が問題かはもうお分かりだろう。一体いつから阪神カップが「1,400メートル未満の競走」になったのだろうか。結局のところ、この記者は「1,400メートル未満の競走」でないレースの結果を「1,400メートル未満の競走における最優秀馬」の選考の論拠にしようとしていたと自白しているようにしか読み取れなかった。この口ぶりだと「阪神カップを勝ったらママコチャに投票していた」と言っているも同然のような気がするのだが、考えすぎだろうか。

ところでリメイクに1票投じられたことが話題になったが、票を投じた記者はそこに至る理由を述べたツイート群の中ではっきりと「ママコチャは阪神カップが前向きな投票材料に出来る内容でなく、推しづらいと判断した」と発言している。この記者が最終的にダートに目先を向けてリメイクに投票したという結果とその理由を詳らかに説明した行動には敬意を表したいし、大筋の投票理由に関しては唸らされるところもあったが、それだけに賞の定義を逸脱した判断まで持ち出して「今年に限っては『該当馬なし』は避けたかった」という発言をしたことに対しては首を捻らざるを得なかった。

これでは他の年なら「『最優秀』が『該当馬なし』」という矛盾を肯定するような票を投じる可能性があると言っているようなものだ。「JRAの芝短距離GIの勝ち馬は短期的な活躍に留まっていた分、GI級競走こそ勝っていないものの海外遠征を含めて年間を通して活躍したリメイクを最も優秀であると判断した」というだけのことであれば論理的に破綻した部分は無かっただけに、この賞が「最優秀スプリンター」であって「優秀スプリンター」ではないということを忘れたかのように「今年に限った『該当馬なし』への忌避感と『リメイクは票を投じるに値するか』の匙加減で後者に傾いた」という結論づけをしたことは画竜点睛を欠いたと思う。「最優秀馬」はあくまでも自分の思想に基づいたランク付けの上において一番上に来る馬を選ぶものであり、「票を投じるに値するか」というのは「他により優れた成績を残した馬がいないか」ということの言い換えでしかないはずである。甚だ残念であった。

本題から少し外れるが、「ママコチャに投票するかを検討するにあたって阪神カップの結果を考慮する」という行為を何故私が批判してきたかというと、それは既に書いたように「1,400メートル未満の競走」でないレースの結果を「1,400メートル未満の競走における最優秀馬」の選考の論拠にしようとする行為であるからだ。これが罷り通るなら「ダートの競走における最優秀馬」、すなわち「最優秀ダートホース」の選考にあたって、候補馬が芝の競走に出走した時の結果を査定に入れることも許されてしまうだろう。

2022年の最優秀ダートホースにおいて「該当馬なし」を選んだ上に「国際GIの勝利数で言えば*カフェファラオもジュンライトボルトも同数だが、ジュンライトボルトは下半期しか走っていないし、*カフェファラオは安田記念で大敗したのが痛かった」などと主張した日には、それが論ずるに値しない暴論として片付けられることは火を見るよりも明らかだろう。当時「該当馬なし」に票を投じたお三方の投票理由がそんなバカバカしい代物でないことを切に祈るばかりである。

提言

「該当馬なし」にせよ何にせよ、別に今年始まったことでも何でもなく、過去の事例を遡っていけば票だけにとどまらず結果まで「該当馬なし」の部門が出た年もあると言えばそれまでである。だがそれは同時に、それだけ長いことこの矛盾が放置されているという厳然たる事実を浮かび上がらせることでもある。

本件において問題があるのは、元を辿れば「最優秀」という看板を掲げながらそれに論理的に矛盾した選択肢を用意する側である。しかし、この度の騒ぎは問題がそれだけで済まされないことを、皮肉にも思考プロセスを明らかにした一部の記者らがはっきりさせてくれた。雉も鳴かずば撃たれまい、彼らは求められもしないうちからファンへの誠意と思ってしたのであろうその行動で、自らの「『最優秀』という名目に対して『該当馬なし』という回答を返す矛盾」あるいは「賞の定義から逸脱した部分による評価」という愚行を露呈したのだ。私はかねてから所謂「年度表彰絶対主義」の類には国内外問わず強い疑問を持っているが、流石に名目との矛盾だとか規則からの逸脱をベースにした票を投ずる者を野放しにすることが許されるほど「JRA賞」という代物の威厳は軽いものではないはずである。

今般のJRA賞は改革の波を迎えていると感じるが、「最優秀スプリンター」と「最優秀マイラー」の分割初年から「最優秀スプリンター」の定義を逸脱した思考に基づいて投票したと自白したに等しい人間が出てきたのでは先行き不安と言うしか無いし、表彰規則が有権者にちゃんと正しく行き渡っているかという点において不安と不信を抱かずにはいられない。

この文章は一ファンの意見に過ぎないが、それはつまるところ今のJRA賞に「一ファンが分かる範囲ですら顕在化している欠陥がある」ということでしかない。賞を主催するJRAやその票を握っている記者の方々にあっては、「最優秀」という名目を掲げながら「該当馬なし」という選択肢を許容するという矛盾にいい加減ピリオドを打ち、真っ当な論理に基づいた賞の運用を行ってもらいたいと強く思っている。

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