解消・解明・解決――哲学者の本懐

上記のtweetは友人によるものである。彼は思想家(政治活動家)でもあるのだが、紛うことなき哲学者であり、私が最も敬愛する人物の一人である。

以下に貼り付けるはこのtweetを引用して書かれたtree(tweet群)である。リンクを踏めば同じことが書いてあるので無駄足とも言えるが、そのうち加筆修正あるいは補遺を書きつけるかもしれないし、備忘録にもなるだろうから決行することにする。

なお、上記tweetはある別のtweetの引用RTであり、そのtweetもまた引用RTであるがゆえに、大元まで遡って参照していただきたい。

哲学者とは如何なる者か

これが哲学者の仕事の一つである「解消」であって、このことの意味(意義)すらわからない人があまりに多く、辟易する。

哲学者の仕事には他に「解明」がある。「解消」が「その問題はじつは(哲学的)問題ではない」ということを明らかにする営為であるのに対して、それは「その問題はまさしく(哲学的)問題である」ということを明らかにする営為である。どちらもある種の〈信仰〉のうえに据えられている。

哲学者は問題を「解決」する、という誤解がままある。私の言葉づかいに依れば、それは思想家(宗教家、政治活動家)の仕事である。哲学者がそれを兼任することはできるしできない。

「できる」のは「哲学者」の外延に当たる者が「思想家」の外延にも当たることは可能だからである。「できない」のはそのとき彼は「哲学者」ではありえないからである。「哲学者」と「思想家」の内包は互いに他を包摂できない、と言ってもよい。

「できるしできない」は「内包」と「外延」の区別について述べている、ということ。話は戻るが、〈信仰〉とは「祈りを拒否する祈り」のことである。それは「およそ考えることは哲学的に考えることである」や「およそ問題とは哲学的問題である」といった言明に示されている。

「祈り」という語に引きつけるなら、「宗教よりも徹底的に誠実に祈る」と言ってもよい。すなわち「常識や教義によって独断的に答えたくなるようなところで、どこまでも論理的に、理詰めに考えていくことこそが最も価値ある行為であるという信仰」なのである。

哲学者が受けるもう一つの誤解として「彼(ら)は科学的問題について考えている」というものが挙げられる。したがって哲学者と最も対立するのは「科学的な問いに宗教的に答える者」ということになる。哲学者はこれを拒否するという意味で、「祈りを拒否する祈り=〈信仰〉」に全身全霊を捧げるのだ。

日々の暮らしの中で立ち現れる問題に対して「解明」を施し、それが哲学的問題であることを論証する(贋物は「解消」される)。今日日(職業)哲学者とされる人物に微塵も哲学者性を感じないことがあるのは、その問題が「実存に欠ける(=贋物である)」からではなかろうか。

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