見出し画像

ゆるめる、こと

もう何年になるだろう。
本を読んでは感想をまとめることを習慣にしようとしてきた。
子どもの頃の一番嫌いな夏休みの宿題といえば読書感想文で、高校生になってからも苦手なぐらいだったけれど。
感想をまとめて、自分のブログやネット書店のレビューに投稿するようになったのは、社会人になってからのことだ。

最初は、遠方に住む読書好きな友人と、あれが面白かったこれが面白かったと情報交換になることが、楽しみの一つだった。
読書ブログのつながりもできて、トラックバックしたり、リンクを貼ったり、コメントをつけあったりしていたこともあった。
そこが私という人の残念なところで、交流そのものは嫌いではないのだが、手間が増えると面倒に感じて億劫に感じて、手が止まりやすくなる。
だんだんと、ブログを書くことがしんどくなっていた時期が来た。

本の感想を書くことは、そういう友人との交流のほか、読んだ本の備忘録をつけておく(もしくは買った本の、だ)という意味や、文章を書く練習をするという意味もあった。
研究から離れて論文を書かなくなり、文章を書く力ががくんと落ちたことに気づいたときに、それを取り戻す練習として、文章を書くことを自分に課そうと思ったのだ。
気になったところや印象に残った言葉を書きぬいて蓄積すると同時に、「読んで考えたこと」を整理し、言語化する。小説以外のジャンルを読んだときには、この作業を続けることは、私には必要だった。

その後、小説についての感想も、本と本を書いたり作ったりする人への応援になっていると教えてもらうことになる。
びっくりしてしまったのであるが、私が書いてきたつたないブックレビューは、その本を書いた小説家さん自身に読まれることもあった。
ネットの世界って、そういえばそういうものだった。血の気がひくような、面映ゆいような、じたばたするような嬉しい出会いである。
これは、19世紀から20世紀中葉の物語を読みながら育ち、19世紀の教育思想の研究をしていた私にとって、本の作者が生きている!というびっくり体験第二弾だった。
ちなみに、びっくり体験第一弾は、初めて学会の懇親会に出たときに、あの本の著者がいる!この本の訳者がいる!!みんな生きている!!!というものだった。
本を書いた人というのは今はもう風になっていらっしゃる方ばかりのような、そういうファンタジーが私の中にあったのだと思う。

本を読みながら、ここがよかった、ここが素晴らしかった、こういう人に読んでほしい、こんなところを知られてほしい、という、本の応援をしたい思考が働くことがある。
ネタばれはしないように、だけど、興味を持ってもらうような、そんな文章を書きたいのだが、この思考を文字に書き写すには、少しばかりの時間と気合と体力がいる。
それがうまくかみ合って、するすると文字を紡ぐことができることもあるのだが、タイミングを逃すと、思考がぼやけて溶けてしまったりして、どうにも言葉にならなくなってしまう。
それでも、以前は無理にでも文字にしてからではないと、次の本にとりかからないというルールを自分に課していたが、そうすると感想が書けないから次の本に取り掛かれないという悪循環になり、読むこと自体が億劫になっていった。

数冊の本を読みかけにしている。
読む力も衰えた。スピードが遅くなり、集中を維持しづらくなった。考えることはあれこれあるが、それを腰に据えてまとめることがしんどい。
なにもかも億劫で、読みたい気持ちや書きたい気持ちはあっても、体を向き合わせることが難しい日が増えた。
面白そうだと思って本を手に取るときには、確かに読みたいという気持ちが働いているはずなのに、それを積んだままにして手に取れない。
山だけが、職場でも、家でも、積み重なって荒れ放題になっていく。
そんな有様であるから、感想を書く、書かないと次の本に取り掛からないというルールを、少しずつ、ゆるめるようになった。

本と本屋さんの応援はしたい。
だから、書けるときだけは書こうと思うが、書くことがしんどいと感じる時には無理をしない。
本を読むことも、仕事の本を読むことも、楽しみのための本を読むことも、自分の義務にはしないようにする。
そんな風に、かつての自分が自分に課してきたものを、今の自分にあわせて少しずつゆるめていく。
少しずつ、手放していく。

そういう人生のフェーズに入ったのだと思う。

*****

トップのイラストは、ダラズさんという絵本作家さんがアップされていらっしゃるものをお借りしました。


サポートありがとうございます。いただいたサポートは、お見舞いとしてありがたく大事に使わせていただきたいです。なによりも、お気持ちが嬉しいです。