夜が明けると
夜が明けると、太陽が大地を焼く。
日が沈むと、人はほっと一息をつく。
夕暮れが一日の始まり。
おいてかないで。
小さな声が聞こえた。
生まれたての子猫のような小さな声だ。
頼りなくて心細い、返事を期待していないような小さな声だ。
おいてかないさ。
真っ黒な大きな大きなオオカミは、優しい音色でうなった。
かつて、人の言葉がわかるように、大きな大きな獣たちが生み出された。
世界から動物たちが姿を消していく中で、動物園に展示されるのはそういう特別に手が加えられた大きな作りものの獣たちになった。
長生きで、丈夫で、大きな大きな獣たち。
人の言葉もわかるし、話せるけれど、オオカミには優しく笑うことは難しい。
だから、精いっぱい、優しい声で、子どもに声をかけた。
おいで。私の背中に乗りなさい。
地球がとても過ごしにくい場所になって行く中で、いくつもいくつも方舟が作られる。
その方舟に、彼ら大きな獣は乗ることは無い。だって、作りものだから。
人が方舟に乗せるのは、猫や犬といった小さくて人のそばで生きてきた生き物。
それに、かつてこの星の上にいたもともとの姿の獣たちの記録。DNAや細胞だけ。
方舟はいくつも作られたけれど、人だって全員は乗せてもらえなかった。
どこにたどりつくかわからないものに、乗ることを拒んだ人たちもいた。
この地球が愛しくて、立ち去ることを選べない人たちもいた。
彼らは、いくつもいくつも、方舟が宇宙に向かって飛び立つのを見送った。
どうか、無事で。
大人たちは祈る。
子ども達は泣く。
おいてかないで。
おいてかないで。
白く大きなフクロウの耳にも、子ども達の泣き声が聞こえた。
夜の闇の中に届くように、大丈夫と優しく鳴いた。
夜は私たちの味方。
闇はあなたたちを隠してくれる。あなたの身を守ってくれる。
夢はあなたたちを穏やかにしてくれる。眠りは心を癒してくれる。
夜は空気を冷やし、世界を少しだけなごやかに戻してくれるの。
だから、怖がらないで。大丈夫。私があなたを見守っていてあげるから。
白く大きなゾウの耳にも、子ども達の泣き声が聞こえた。
両膝を折って、大きな背中に乗りなさいと差し出した。
すべて弱いものたちは、この背中においで。
私の背中で暖を取り、安心して眠りなさい。
じっと朝までそばにいてあげましょう。
星が落ちてきても私が受け止めてあげましょう。
だから、怖がらないで。大丈夫。私があなたを守ってあげるから。
夜が明けると、太陽が大地を焼く。
女の人は砂の大地に枝を挿す。
緑の葉が数枚ついた枝を挿す。
白い鳩が運んできたオリーブの枝だ。
大地に挿しては、両手で水をすくい、運んで、注ぐ。
わずかな水をすくっては、何度も通い、運び、注ぐ。
女の人の周りに、鳥たちは様々な枝を落としていく。
もう少し、土地や天気や気候を考えればいいのにね。
鳥たちの持ってくる枝のすべてが根付くわけではない。
乾燥に耐えられないような植物であっても、ありがたく受け取って、大地に返す。
いつか、それが根付くことを祈りながら。
緑に覆われた大地を夢見ながら。
枝を拾っては植える、水を汲んでは運ぶ日々のうちに、腰が曲がって行く。
肌が日に焼けて黒くなり、髪が日に焼けて白くなる。
すっかりしわくちゃの小さな姿になっても、注ぎ続ける。
人は世界に間借りしているだけなのだもの。
人しか住まない世界は、人も住めないの。
だからね、この星が方舟だって忘れたらだめなの。
世界をいつか生き返らせるために。
鳩は枝を運び、女の人は水を注ぎ続ける。
鳩が瓦礫の上を飛ぶと、地面から白い小さな光が浮かぶ。
光は鳥の姿となり、新しい鳩が増える。
生まれたての白い鳩は、人の顔をしているようにも見える。
地面に残されているのは、小さな躯。光の数だけの躯。
押しつぶされ、飢え渇き、命を落とした子ども達。
力強いオオカミにも、知恵者のフクロウにも、心優しいゾウにも、献身的なウマたちにも、誰にも救えなかった子ども達が、天に昇って緑を配る使者となる。
そして、また、一日が過ぎて、夕暮れを迎える。
新しい一日の始まりに、男の人は手を組んで頭を垂れ、祈りを捧げる。
間に合いますように。
この星に命がまだあるうちに。
この星が方舟。命の記憶を載せた方舟。
だれも置いて行かないために。
間に合いますように。
男の人は、朝がくれば、大地を耕すだろう。
躯を埋めて大地に返し、いつか命が蘇るように。
力仕事に手が節くれだって、腰が曲がって行く。
肌が日に焼けて黒くなり、髪が日に焼けて白くなる。
すっかりしわくちゃの小さな姿になっても、耕し続ける。
大丈夫。大丈夫と祈りながら。
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山口法子さん巡回展「おいてかない」に行きました。2024年5月4日から5月26日の期間で、もう終わってしまったのですが。
フライヤーには、「ノアの方舟に乗れなかった、乗らなかった者たちのその後の暮らしを描いた作品」とのこと。
そこに、2023年10月のガザ侵攻にプロテストするシリーズが加わり、とても心を揺さぶられる展示でした。
その感想として書きました。
同時に、これは村山早紀さん『さやかに星はきらめき』の前日譚をイメージしました。
キャサリンが見下ろす(見上げる?)地球の最後の日々に、その地でなんとかよりよいものを取り戻そうと、あがいた人々がいたはずだと思いたいのです。
だから、宇宙を目指す方舟には、犬や猫を載せました。
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