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memento mori

卵巣腫瘍の再々発の治療経緯を書いてきたが、2020年2月以降、Covid-19が流行するにつれて、私もまた、気持ちが沈みやすかったり、揺さぶられている。

そのことを、少し、言葉にしたくなった。
吐き出すことを必要としているだけで、御心配は無用であることを先に断っておきたい。

2月から3月。抗がん剤治療の第4クールから第5クールにかけては、最もつらかった。
薬剤の蓄積と疲労の蓄積があり、副作用もますます強くなり、ただでさえしんどいところに、Covid-19のニュースはきつかった。
当初は死亡率が20%を超えると言われた高齢者と持病のある人。
それが我が家の構成であり、誰がもらってきても、重症化しておかしくない。いや、死んでもおかしくない、と思った。

最初から、たとえば武漢のような事態、イタリアやスペインのような事態になった時、自分が生き延びられる気がまったくしなかった。
父はこういう時になぜか漏れなく流行にのってしまう人であるし(海外に行けば必ずなにか病気になるし)、母は家族が罹患したら放っておけなくてうつること必至の人である。
この人たちを守らなければならないと思うので、自ら危険を招くような行動は慎むように気をつけており、予防はできる限り努めている。
それでも、来年の今頃、自分はこの世界にいなくても仕方がない。そういう前提で、私は過ごしている。

たとえば、Covid-19が下火になる時までやり過ごすことができたとしよう。
その後の世界を想像すると、怖いなぁと思ってきた。
今のままだときっと長引く。
外出の自粛の強要という日本語の表現として不適切な状況が長引けば長引くほど、経済的に破綻する企業、店舗、個人は増加していくだろうと予測している。この先に自殺が増え、失業保険給付や生活保護受給が増えることを考えれば、この自粛期間の生活を補償しようとしないことは愚策に思う。
もしかしたら流行が終息していないのに経済活動の再開が促進されて、何度も流行の波が繰り返されるとしたら、人口の減少と共に、業種として成り立たないものすら出てくるような気がする。

たとえば、私の好きなコーヒー。
ブラジルのブルボン種。やや深めの煎りがあう、チョコレートのような香りが好き。
ミナスジェライス州の百年レッドブルボン(ニシナ屋珈琲さん)が特に好き。
そのブラジルでは、国民の70%がCovid-19に感染するだろうとして、大統領が隔離措置に反対の立場を示している。
ブラジルの国民が約2億として、7割は1億4000万人。Covid-19の死亡率が0.2%だったとしたら、28万人が死亡する計算だ。
つけくわえて、病気は人種を選ばないが、リスクは貧困層が高いと言われる。それは防御する手立てを講じるにもお金がかかることや、経済的に困窮しているほど、公共の交通機関を使わなくてはならず、かつ、労働しなければ糊口をしのげないという事情がある。
28万人。それだけの死亡者が出たとき、ブラジルの産業はどれほど傾くだろう。
私の好きなコーヒー豆を作る人は生き延びているだろうか。その豆を加工する人、流通する人、取引する人、日本で販売する人、焙煎する人、いくつもの、いくつもの手を経て、やっと手元に届く、この液体は。

日本においても、一体、いくつの店舗、いくつの企業が生き残るだろうか。
これまで通ってきた店が休業になるたび、少しずつ自分の日常が狭まっていくのを感じる。
あのお店、あのお宿は、Covid-19の後に再開するのだろうか。馴染みのスタッフは欠けずにいられるのだろうか。
そんな風にひとつひとつを想像すると、最近は買い物をするたびに、これが手に入るのはこれが最後ではないか?という思いに捕らわれる。
あるいは、次は手に入らないかもしれないと考えると、衣服の断捨離がまったくできなくなった。(面倒なだけじゃないぞ!)

インドでは感染者数がもう1万を超えている。香辛料は、手に入り続けるのだろうか。
イタリアの感染者数はようやくピークを越えてきたようだ。18万以上の人が感染し、5万弱の人が回復し、2万4千人以上の人が亡くなった。そのイタリアで作られていたパスタやワイン、今年は作ることができるのだろうか。持ち直すまで、時間を要して当たり前ではないだろうか。
世界は繋がっている。私の生活の背景には、世界のさまざまなものが、たくさんの人の手を経て、支えられてきた、奇跡のような連環があったのだ。

食べ物のことばかりを思い浮かべがちだけども、今の私のこの生活は、ライフラインを支えるたくさんの人たちのおかげで成り立っている。
電気、水道、ガス。それを動かす人たちの通勤や生活を支える人たちがいる。
そういったインフラは、普段は意識されないシステムであるが、支えているのは人間だ。命のある人間だ。
医療や司法など、社会のシステムだって、支え、動いているのは、人がいるから。
その人が失われた時、システムは維持できるのか。いつまでも、維持しうるのか。
そもそも、今の日本は、戦後から高度成長期を経て、バブル期までに完成されたシステムを、惰性と慣性に従って使いつぶしながら、過去の恩恵にあずかっているのだと思っている。

私の想像は、ますます絶望的な方向に展開する。
半年後なのか、一年後なのか、もう少し先なのか。
食うに困る大恐慌が来るのではないかと、なかば諦めと共に考えている。
経済的に困窮する自信はあるし、個人で備蓄できる食料なんて知れている。
治安が悪化したとしたら、高齢者と中年女の家庭など、自衛する力は弱い。
そんな世界なら、もう、生き延びたいという気力を保つ自信もない。
とっくに詰んでしまったゲームを、結果はわかっているのに続けなければいけないような、感情が無になる作業を粛々と片づけるように、毎日を生きている。

だから、今、私には未来を語ることが難しい。
未来の希望を紡ぐことが難しい。
私自身が、そこに希望を見出していないから。

パートナー氏とも、次に会えるのは、半年後とか一年後とかじゃなくて、二度と会えないこともあるんだろうなぁ。

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