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感想『曲亭の家』

西條奈加 2023 時代小説文庫

子どもの頃、子ども向けに解題された雨月物語や春雨物語と並んで、南総里見八犬伝に夢中になった。
仁義礼智忠信孝悌と、それぞれの剣士の名前を憶えたりしたものである。
ちょうど、朝ドラの「らんまん」でも、主人公の妻が八犬伝の愛読者として描かれている。
南総里見八犬伝の作者たる滝沢馬琴の家に嫁いだお路の物語。
本屋さんでなにげなく見かけて、手に取った一冊だ。

馬琴が、あれだけの長編小説を書き切ることができたのは、ひとつに長寿だったからであろう。
その晩年は視力を失い、嫁であるお路が口述筆記したことは、なんとなく知ってはいた。
そのお路が嫁いだ滝沢馬琴の息子は、体が弱く、医師ではあるがほとんど出勤できない。父親の顔色を見て、常にびくびくして、時折、きっかけなく癇癪を起こす。
その息子を溺愛する姑のお百は、考えるより先に口に出すようなところがあって、こちらも付き合いにくい。
馬琴自身も、かなりの人見知りでこだわりが強く、理不尽な要求が多い。
彼女の結婚生活を読めば読むほど、気が重くなるのを感じた。

女に課せられる仕事には、昇進も褒美もない。家政はできてあたりまえ、つまずけば粗忽者だと謗られる。しかし甲斐がないわけではない。妻が、母が欠けるだけで、たちまち日常が滞る。三度の飯だけではなく、家族のきしみに油を差してまわるにも、女性の存在は絶対である。

p.254

男はこう、女はこう。
江戸時代が舞台であるから仕方がないのかもしれないけれども、息苦しくてたまらない。
現代だって、求められることにさしたる違いはないようにも感じるから、息苦しくてたまらないのか。
現代になって、その枠組からの逸脱をある程度は許されるようになったからこそ、そこに再び押し込められるようで息苦しくてたまらないのか。
夫とはぶつかるばかりでも、子どもを得て、子どもがいるから余計に離縁をためらうようになったお路の生き方に、自分の気持ちをどう重ねてよいかわからなかった。

むしろ、癇癪持ちの夫の気持ちのほうに、ひょいっと引き込まれそうになった箇所がある。

並より劣る働きしかできない焦りは、たいそう塩辛く、身内の重荷にしかならない疚しさは、この上なく苦い。いったい何のために生まれてきたのかとの自問は、きついほどの酸いを伴っている。
このような侘しい味を、絶えず噛み締めてきたのか(以下略)

p.159

この侘びしさ、塩辛さ、苦さ、酸いなら、痛いほど、毎日のように感じている。
そういう風に比べるならば、私のメンタリティは、「家人の皆の気持ちをくつろがせ繫ぎとめることが、なによりの役目だよ」(p.75)という家庭の要としてのアイデンティティよりも、社会でいかに認められて経済的に家庭を支えるかというほうに、より重点を置いていることが露呈する。
もしかしたら、多くの独身で、自分で自分を食べさせていくしかない女性たちにとっては、そういうものではないかと思う。
社会に出て働く機会が増えた女性たちが、お路が実母から言い聞かされたような女性の役目を再発見、再評価する機会になるとしたら、この本の息苦しさも意味はあるかもしれない。

けれども、やっぱり、白眉は、そんな風に妻として、嫁として、母として、我慢に我慢を重ねて、滝沢家に付き合い続け、南総里見八犬伝という物語を憎み、恨み、疎ましくてたまらなくなった瞬間に訪れる、あの場面だろう。
それは、ものを書き、絵を描く人たちの心を代弁するような美しい場面だ。
この小説が最初に刊行された2021年、コロナの流行で、多くの芸術が不要不急の名のもとに切り捨てられそうになっていた。
その時期だったからこそ、作者は描かずにいられなかったのではなかろうか。
政府がさまざまな理由をつけては、戯作者や浮世絵師を取締り、多くの人が若くして死んでいく。版木を処分されて絶版にされてしまう不幸が続く世の中で、それでも人々は南総里見八犬伝の続きを心待ちにしていた。

読物、絵画、詩歌、あるいは芝居、舞踊、音曲ーー。
衣食住にまったく関わりないこれらを、何故、人は求めるのか?
それは、心に効くからだ。精神にとっての良薬となり、水や米、油に匹敵するほどの生きる力を与える。
八犬伝がこれほど歓迎されるのも、荒唐無稽であればこそだ。

pp.248−249

お路がはたと気づいた時、彼女の構えが変わり、彼女はある意味、生まれ変わる。
そして、滝沢琴童が誕生するのだ。

男女の役割に縛られて生きるしかなかった世の中で、その性役割を超えていく。
かろやかではない。小さな幸せを見つけながら、なんとかかんとか、目の前のことを1つずつ取り組んでいっただけ。
それでも、滝沢馬琴の弟子は一人であり、馬琴の物語はその弟子のおかげで完結し、今も愛され続けている。
それこそ、朝ドラのなかで描かれるぐらいに。



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