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書籍『コンビニたそがれ堂:花時計』

村山早紀 2020 ポプラ文庫ピュアフル

時が巻き戻せたら。

そんな願い事が共通した3つの物語が収められている。
詮ないとわかっていても祈るように願うのは、それぞれが取り返しのつかない事態を孕んでいるからだ。
取り返しがつかないとなれば、生死が関わってくる。
死という不在をどのように受け止め、自分の内側に納めていくのか、作者の手探りが感じられる。

なにしろ、1つめの「柳の下で逢いましょう」の主人公ときたら、影の薄い幽霊さんときている。
この「柳の下で逢いましょう」には野良猫の母子が出てくるが、数年前に我が家の裏口に来ていた野良猫の母子に重なった。
その子どもたちのうちの4匹は、我が家でそろそろ中年になってきたが、できれば母親猫にも安心して暮らせる生活を提供したかった。
長く飼っていた猫に一番そっくりだった母親猫。一度も鳴くことがなくて、警戒心が強くて、触らせることもなかった母親猫。美人な雉猫さん。写真の一枚も残っていない。
物語のなかで、母親猫にも暖かい寝床と食事が得られたようで、私のなかの思い出の猫も少し救われた気持ちになって嬉しかった。
全体に濃密な死のにおいを感じたため、少しばかり気合が必要で、一つを読むごとに深呼吸しながら読んだ。
が、そこはそこ、さすがプロのお仕事。
3つめの物語にふわりと光の世界に引っ張り上げられ、現実に戻らせてもらった。

私は、後悔は不在という心にぽっかりと空いた穴の縁をなぞる作業のように思い描く。
もはやその存在そのものには触れることがかなわないから、代わりに不在に触れてしまうのだ。
不在に触れるたびに心が痛むとしても、その痛みだけがかつてそこに存在があった証である。
自分が深く存在を思えば思っていたほど、不在の痛みも切れるように刺さるように引き裂くように痛い。
だから、痛くても痛くても、触れてしまうのだと思う。
そうとしか、不在になってしまった存在に自ら積極的に関わる方法はないのだもの。
惜しむ、悼むとは、不在の痛みを感じ、なかったことにしないことなのだと思う。
それでも、時が流れて、穴の縁はなぞるうちにすべらかになり、いくらか大きさが小さくなり、深さが浅くなり、こころの内に抱えやすくなっていく。

実を言えば、私はあの時に戻りたいと思うことは、今のところ、あんまりない。
自分の人生は一度だけで十分だと思っているので、やり直すことで終わりまでの時間が長くなることを考えると、ぞっとする。
あれはやめておけとか、それはいらなかったと思っても、こうしておけばよかったと思うことが少ないのかもしれない。
今が一番ましだとも思っているし、後悔するタイミングは自分の人生のこの先に今や遅しと控えているのだとも思う。
そんな私であっても、Twitterで老猫を甲斐甲斐しく世話をする人を見ると、死んでいった猫にもっとしてあげられることがあったのではないかと落ち込むことがある。
冷静に考えてみれば、知識も技術も足りなくてどうしようもなかったし、自分の気力と体力も限界だったとは思うのだけど。
それでも。

物語は不思議だ。
できなかったことが、かなえられることがある。
当たり前の日常を生きている平凡な人生のなかで、「自分なんていてもいなくても同じではないか」と思ってしまうことがある。
自分に意味や価値がないように感じて、もどかしくて頼りなくて焦ったり苛立つような感じは、思春期に特有のものだと思っていた。
けれども、大した人生を送っていないような、これではいけないような感じというのは、折々に触れてよみがえるものだということがわかってきた。
青年期、中年期、そして、老年期になっても、自分の来し方を振り返るたびに、行く末を思うたびに、ひとの子のこころは揺れ動くものなのかもしれない。
だから、「自分を許しておあげなさい」というねここの助言が、この本の全体を貫く贈り物なのだと思う。

できなかったことを許す。
できなかった自分を許す。
きっと、それが喪の作業の要なんだろう。
今の自分を許せないような気持ちが頭を持ち上げてきて迷子になったとしたら、たそがれ堂を探すチャンスなのだ。
神様は留守にしていても、代わりに可愛らしい店番のお嬢さんが話を聞いてくれるだろう。
おでんは温かく煮えているし、おいなりさんは甘くてしっとりしていて、葛湯や梅昆布茶をサービスしてもらえるかもしれない。
「未来はいつだっていい子の味方」なのだから、その未来を生きている大人があんまりよろよろしたくないなぁと思った。

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