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【掌編小説】愚かな男

 この独房に収監されてから、1年ほど経っただろうか。ここは10人分の独房が横一列に並んでいて、私は入り口から3番目だったと思う。全ての独房に囚人がいるのかはわからない。会話は禁止されているのか、そもそも誰も声を発することがない。そのためどこに誰がいるかはわからない。微かな呼吸や咳払い、あとは夜中の寝言が聞こえるので、おそらく誰か私の他にもいるのだろうと思う。
 私は日本から異国に来て罪を犯して収監された死刑囚だ。今となっては、私の何がそんなにもいけないことだったのか判然としない。持っていたものが、この国では禁止されているものだったというようなことが逮捕の理由だったと思うが、結局のところ取り調べも裁判もこの国の言葉で行われ、申し訳程度の日本語通訳者も現地の人間で不明瞭な日本語訳だったこともあり、私はよくわからないままにここにいる。情けないことに、よくわからないまま異国の地で死刑となる運命のようだ。
 独房の環境は悪くない。比較的暑いアジアの国であるが、壁の上の方の天井に近いところにある通気口から外の空気が入ってくるし、何故か竹で出来た団扇だけは与えられており、それで扇いでいても咎められることはない。部屋は四畳半ほどあり、ベッドと水洗トイレがある他は3メートルほどの高さの天井と通気口があるだけだ。通気口から空気と外の光が多少入るので、窓はなくても外の天気は分かる。雨の降り始めの埃が湿った匂いは、日本と変わらないなと思う。何の意味もないのだが。
 死刑の執行はある日突然あるようだ。どういった決まり方なのかはわからない。説明があったかもしれないが理解できていない。ただ私がここに来てから2ヶ月後くらい経った時に看守が3人で私の独房の前を通り過ぎて行き、奥の独房の鍵を開けて一人の男を連れて行ったことがある。私と同じオレンジ色の服を来た現地人と思われるその男は私の独房の前でチラリと私を見た。その目は意外にも、いや今の私も同じなのだが、恐怖の色はなく、怒りもなく、諦めを通り越して、ほとんど何という感情もないような人形のようのような、ガラス玉の目だと思った。いざその時が来ても、あまり喚いたりしないのだ。
 そして、今まさに私の独房の前に3人の看守が来た。現地の言葉で先ほどから何かを言っている。罪状なのか死刑執行の命令書の読み上げなのか、ただ何となくどこか安らぐような印象を受けるのは、もしかしたら聖書や仏教の経典などから引用した言葉で天国へ安らかに行きなさいと言っているのかもしれない。
 看守の話が終わった。左に待機していた看守が手にしている鍵を持って来て私の独房のドアを開け、独房内に半身だけ入れると手招きをした。こちらへ来いということだ。
 いよいよ自分の番が来た。独房を出て振り返って見てみると、1年はいたであろうその部屋は結局のところ何もない無機質な部屋で、私がここに生きていたということを何も記録していなかった。既に私はどこにもいなかった。私が自分の独房を見ている間に看守は素早く私に手錠をかけた。
 看守の一人が私の前を歩き、鍵の看守ともう一人が両脇で私と腕を組む形で前に進む。2番目の独房は1年前と同じく空いていた。1番目の独房は以前に誰か来たと思っていたが、やはり思っていた通りで、そこに入っている若い男が膝を抱えてガラス玉のような眼をこちらに向けている。たぶん私も彼と同じ眼をしているのだろう。
 独房のエリアから先の廊下を進むと、武装した警官がドアごとに2名ずつおり、看守に両脇を抱えられながら進むたびに、ドアの前の男たちがドアを開けてくれる。
 外に出るドアを通ると、中庭だった。外の明るさに目がついていかず、思わず顔をしかめる。目が慣れてきて見てみると四方はコンクリートの灰色の壁で、上は吹き抜けになっていて夏の青空と白い入道雲が見える。地面はあまり整備されておらず、ところどころに雑草も生えていて、間が抜けた印象だ。この場にはそれしかない。そういえば、この国の死刑執行の方法がわからない。絞首台も電気椅子も、その他何かそれと思うような設備はなく、ただ青空の下に灰色の高い壁があり、地面には何もない。
 先ほど独房を開ける前に何か言葉を発していた看守が私の前に立つと、また同様に話を始めた。日本語にしてくれと思うが、それを主張してどうこうしようという気にもならない。彼の言葉が終わるのを待つとする。空を見上げても文句はないようなので、しばらくこの美しい青空を仰ぐことにする。
 私の両脇の看守が離れた。看守たちの腕が絡んでいた肘の内側の汗が冷えることで、そこを押さえられていたのだと感じさせる。手錠が外されると、私の前に立っていた男が私から見て右にずれて、目の前の空間が開けた。いよいよ、ということらしい。後ろからガチャリ、ガチャリと銃器と思われる鉄の音がする。撃たれるのだろう。看守が左手を伸ばし私の右肩を後ろから前に押し出すようにしながら、「ゴー、ゴー」「ユー、ゴー、ホーム」と言った。家に帰れ?意味はわからないが、私は促されるままに前に歩き出す。ずっとそばにいた看守もいない。この灰色の壁に囲まれた空間の中央へ、美しい青空を仰ぎ見ながら進む。
 ちょうど中央に着くかという時に、踏み外したように地面が抜けた。体がそのまま前に倒れこみながら地面に飲まれるように落ちていく。落とし穴だったのか?この後、何かあるのか?思考する余裕もないままに、終わりがない深い地下空間へ体を壁面にぶつけたり、擦ったりしながら、深く深く奥底へと落ちていく。深い闇の中へ、まるで空中を飛ぶように止まることなく。

 落下する感覚と「うわっ」という自分の声で気がつくと、自分の部屋のベッドの上にいた。窓からは日の光が差し込み、外を走る車の音や人の声が聞こえる。すぅーーと鼻から息を吸い込み、安堵とともに息を吐き出す。
なんだ、夢か、良かった。

 寝転んだまま壁の時計を見て「9時半か」と思った瞬間、テーブルの上のスマートフォンが着信の振動をする。起き上がって手に取ると、ディスプレイには「会社」と表示されている。
 スマートフォンのバイブレーションが続く。
ブーン、ブーン、ブーン。

(了)

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