弱者の私。弱者なりの、

昨今、弱者救済がよく口に出されます。
認識されやすいのは、身体が思うように動かないで生きる人は、社会で生きることのハードルは高く、不利になりやすいです。本当に社会の受け皿はもっと整えて良いと思います。

私はデザイナーの頃、無茶苦茶な仕事の仕方をしてしまい、身体を壊して2年間も療養生活を送り、ブランクのために再就職が難しかったですが、幸い元気になっていき、普通に暮らす毎日を送れるのは、本当に幸せだと思います。

でも、私は自分は弱者だと思っています。
決して強い人間ではない。恥ずかしながら、機嫌が悪くなると、チリもつもり、感情的になって怒ることもあります。だいぶ減ってきましたが。結構難しい。(-。-;

むしろ、闘病生活の頃の私の心はまだ強くいれました。そして、身体がうまく動かない悔しさも少しだけ理解出来ました。

ですが、これまでの時代の崩壊するようなウネリに精神的に負けてしまいそうなのです。

それでも弱い人間は弱い人間なりの生き方はあると考えてます。

生きていくためには、いろいろ考えて、工夫して、自分の出来る限りをしっかりとやっていくに尽きます。私はどのように自分を成長したいか毎日模索してます。

目立って生きることはリスクがあるので、割と隅に存在するように過ごして来た人生だと思っていますし、それによって、私は支えられているとも思います。

ただ、気をつけているのが自分居心地の良いコンフォートゾーンに定着することには気をつけています。

何故なら、自分の居心地の良いコンフォートゾーンにいることで、それを執着して依存したら、誰かがそのゾーンに入れないことがあると気づいたのです。

居心地の椅子を例えると、わかりやすいです。
座り心地がよく、快適で見晴らしの良い席があり、ずーっと独り占めすると、家族の誰かは我慢してその体験が出来ない。

そういう時は、座わる場所をちょっとだけ変えます。そうすると、今まで気づかなかったいろいろなことがわかってきました。そして、また自分のコンフォートゾーンから離れては戻ると新たに力が湧いたりしました。

私は弱い人間なりに、今の社会に憤りはありましたので、実際試みて仕事でより良くしようと行動に移したことはありますが、身体が持たないこともあり、挫折しました。

けど、挫折感はあんまりなく、どちらかというと、貪るように睡眠が好きになり、二度とデザイン制作したくない。という体たらくで呑気な解釈をしてました。幸い、案外あっさりと挫折して、むしろ普通にご飯を食べて、普通に寝れる事の至福感がめちゃくちゃあります。

ならそれでも人生の改革を!という意気込みは、しばらくありましたが、それも、あっさりスタンスを変えれました。割とすごく大きなことをしないとならないと思いがちですが、でも、もしかしたら、私の居心地の良いコンフォートゾーンや、決めつけた取り組み方を少し変えてものの見方を変える方が、私の人生の改革になるのかな。と思うようになりました。

静かに改革するやり方が自分に合っていると考えるようになりました。

どこに座るか、西向き、東向き、たくさん知性を揃えた本棚に向かうか、大好きなメッセージ性のある絵の前に座るか、それによって私の一日が静かに変わり違ってくるかもしれないと想像し始めてます。

それが弱者の立場である生きる工夫のひとつにしています。

私は自己肯定感が非常に低くく生きてきました。その弱さがあるから、それを認識した時、「肯定するということ」と想像することで、あらゆる見方の幅が広がると思えた時、微かに感じる可能性のものを見つける手立てを、自分の中で見つけました。それは単に二次元的な肯定ではなく、想像して受け入れることが私の肯定感です。

人はそれぞれ、自ら自分の痛みを人には言えない辛い過去や闇を持っていたりするかもしれません。

けど、その辛い過去を私怨にすると、悲劇を生み出してしまいます。

その上でずいぶん辛いとは思いますが、その中で一番難しくて、大切なことは「許す」ということだと思います。

許せないということは、自分の中で許せないしこりのコブを作ることになり、それは、素直に身体も反応します。身体に良くないことであり、身体が悪くなると本末転倒です。

結局、人を許すのは、相手と自分の違いを受け入れることです。相手の価値観を認めて許すことが出来れば、それは人を理解し、愛することも出来ます。

みんな少なからず、自己否定や自己嫌悪があると思います。多分。私もそう。

傷ついてきた人生でわかるのは、愛されて安心して自分を生きたいと願う自分自身の存在に気づいたら、身近に感じる人へ、愛して安心感を感じて生きて欲しいという思いに繋がると信じます。

私は今は本当に心の平和を願ってます。

意見をぴったりと一致させることに集中して、お互いを批判することに時間を費やしても、エネルギーや会話を使っても、もしくは会話にならない対立にもなり、より、その目的に向かうことは難しくなります。

もし、平和を望んで向かいたいなら、理解するための聞く力は必要です。誰かと違う価値観でも、その誰かも唯一同じ平和を望んでいるなら、そのことに「ありがとう」から伝えて、平和に参加するのも、良いと思います。それだけじゃ足りないと、言われるかもしれませんが、私はまず基本は平和なんだろな。と想像していますし、肯定的に考えてます。

もし仮にこの話を読んで、その平和な考え方に参加されたら、何かが始まっていきます。

まずは、はじめてからでないと、対立したままでは、他も始まらないこともあります。

今や、日本のネット社会を可視化した段階では、「人間のクズ」の罵り合いを好戦的に対応したりする人が出てきたりしました。

非常に心が痛みます。人が人をクズ扱いするのはもってのほかで、ものすごい攻撃力です。

しかも、会ったこともなく知らない人です。知りようもない人をいとも簡単にそのように罵り合いするのは、非常に波長が悪く、私は直ちにに気分が悪くなります。本当に見るたびに悲しくなりますので、あえて見なくて良いかな。と考え始めました。波長の影響は安易に考えて対応するとまずいことにも繋がる。

実際、言われた当事者は、本当に傷ついてしまうか、麻痺してしまい、無意識に潜在意識まで悪影響を及ぼす可能性があり、とても危惧してます。

まずは、その当事者をきちんと察して、本当に心の平和を祈るばかりです。

私は今まで世界で生きる人が滅ばずに済んだのは、実は、その名の知れない平和な人たちがいるからだと思います。もし、そのような平和な人を攻撃するのが当たり前になると想像絶するものがあります。

私の友人のお父さんは友人が高校生の頃、人に罵られ、理解なき言葉や態度の攻撃で彼は自ら命を断ちました。

その後の友人は一切悲しみは口にすることなく、耐えきれず、寂しさを埋めるための歪んだ生き方をしました。それは、そうしないと自分を取り持てなかったんだと思います。

私は、ただそばにいることくらいしか出来ないでいました。その友人が悲しみに墜落しないように、一緒にくだらないことや悪ふざけをして気を紛らすことしか出来ない。人は悲しみに墜落したら、昨日より今日が良い日だな、と思えるような毎日を紡ぐ事に集中する気力すらなくなる。

そのように心の平和が無いと、人は自ら命を断つほど、言葉や態度も凶器になります。

他人の避難、批判、人の忠告はその人の言おうとする動機次第で、自他とのニーズの切り分けは時に必要です。実際、言ってる本人は何言っているかわかってない時もありますし。

しかし、言葉は人を生かしもします。その私の友人は不思議なほど、あることをきっかけに生きることを肯定的に捉えるようになりました。

その友人のお父さんから、不思議な伝言が後に見つかったのです。


最後になりますが、
もうひとつ気をつけることがあります。

かの夏目漱石は草枕の小説に、
「知に働けば角が立ち、情に竿させれば流される」と表現してました。

私はそれより、なるべく表現する言葉は、知に角が立たないくらいの感じの文体にしようと気にかけています。

どうしてかわからないけど、一見賢い感じで話したら、拒絶反応する人もいました。

本当、難しいです。

それでも、実際会う人には特にぽわーん、とした雰囲気でなんとなく話をするような、あえてアンニュイな感じで伝わるように気をつけてます。

少しずつでも、心が柔らかくなり、安心して会話が出来るように。と、

明日、今日よりいい日になりますように。
そのちょっとだけの工夫を重ねて生きます。

平和な感じになりますように。



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