記憶の栞が教えてくれてること

今年の春、九州に帰ったらよく思い出の場所や、思い出のものをみつめていました。あの頃の自分に戻りたくて、また見つめ直しています。

それは意図してではなく。
ほんのりとぼやけてやってきます。

思い出をよくみつめると、記憶の断片の一コマはまるで「記憶の栞」のよう。

オーバーラップして、やってきては、また何処かへ消えてしまいそうです。

記憶の栞、例えば、

ぶどうジュースが好きだと言った友達。今では自分がなんとなくぶどうジュースを手に取ってしまうとか。

朝まで丁寧にデザインノウハウを教えてくれた友人の、いたって穏やかだった声と重なる木漏れ日の優しさとか。

寝不足で倒れ込んでたとき、心配する母に借りた毛布の香りとか。

無垢な父に教えてもらった、蛍の赤ちゃんの小さな光とか。

ある日、その子の奥に潜める良いものを理解したくなって心のドアをノックしまくった、夜のドライブ中のしどろもどろな空気とか。

思い出すのは、『結果(解)』ではなく『過程』のようです。

ぼんやりと考えています。それは、

『過程』からどう逃げるために生きることと、『過程』をどう見つめて生きることは、同じ『過程』という名詞の呼び名でも、心に抱いていく記憶の栞は違う存在になると。

それらのどちらが良いか悪いかとか、とかそんなんではなく、

逃げる時のやるせない心臓のビートも、試みた潔さも、塞ぎ込んで頭を掻きむしるやるせなさも、何気ない会話の柔らかさも、えぐられるような想いも、ぶどうジュースも、蛍の赤ちゃんを見つけた時のあの瞬きも、上手く繋げてみたい記憶の栞になってます。

時に肝心な一コマの栞が思い出せずに、たたずむと、ぼんやりぼやけては消えてしまいそうで

そう思うと、私にとってはどの過程も大切な栞だったんだなぁと。

いろんな過程を紡いできたんだなぁ、と。
そしてまた『瞬く過現未』にたとたどしく紡いでいくんだろうなぁ、と思えるのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?