不必要なことへの働きかけ

私はかつて一次産業の代弁者になりたくてデザイナーになった。

実際は一次産業の方々の大半はデザイン広告やブランディングする時間も労力も資金も無い。

それに対して人にも地球🌏にも優しくない大企業ばかりがデザインに力を入れてブランディングしたり、メディアを使い、あらゆる影響を社会に及ぼしていた。

広告はその当事者の代弁者になる。

当時私は、大嫌いな自○党保守派がバックにいる大企業の広告やメディアの媒体を不眠不休で作っていた。

当時は、自己満足や将来的に一次産業に貢献出来るスキルを培うための踏み台だと思って、不眠不休さえも割り切れた。(後に割り切らなくなります。笑)

後、メディア政策の裏側もよーくわかった。
非常に不自由なのは確か。だってお客さんの言う通りにしなくてはならない。

私はある情報誌を企画し作成した。取材もした。どれだけリアリティある記事にしたくても、最終、校了の採決はもちろん企業側から承諾を得ないと校了にならず、いつまでも企業の気にいるものを何パターンも作り続けるだけだった。

メディアはスポンサーの了解ではじめて、仕事が完成して、その仕事から解放されていき、コンペに勝ち、企業に気に入ってもらうほど、給料が上がり、自宅に帰れて寝れる現実。

気がついたら心身共にボロボロになってドクターストップ。

蕁麻疹が出たら、熱が下がらない。(-。-;

私は一次産業の有利な代弁者になる前に、身体が持たなかった。

デザイン会社側は、特に社長と上のものは、自○党保守派の思想にどっぷり浸っている。

(しかし、デザイナーの中には歪みを感じる人はいた。ただ、家庭があるから今だにその会社に従属中。本当の声を上げることに懇願しながら。)

それ以来、いろいろ考えた。
大企業と政治家の都合の良い悪影響を。

政治家の都合の良いことや大企業ばかりに社会とパイプが繋がって、一般の人や一次産業にパイプがあまり繋がってない。

かつて、違う尺度から表現したことがある。

伊勢神宮の式年遷宮の取材を経て、式年遷宮だけでなく、伊勢神宮は全て「自給自足」でまかなっている現実を見ましたので、伊勢神宮はその人たちによって支えられ、その「自給自足」は全て一次産業だった。お宮を作る宮大工の人、畑で神饌を作ったり、海人さんなどなど、そちらにちゃっかりフォーカスして、「伊勢のいとなみ」というコンセプトにして企画を上げた。

私は微力ですが、自○党保守派に対する悪あがきだった。

日本人は無宗教が多いと言われるが、おそらく式年遷宮や年末年始の伊勢神宮の参拝客はイスラム教のメッカより多いと思います。

それほど伊勢神宮に参拝する人は多い。

ということは感心は高いはずです。

その式年遷宮に向けて、地元で働きかける一次産業の価値を前面に出したかった。

その人たちの訴求はリアリティに表現して、問題提起した記事と問題訴求広告を挟んで作ろうとしたが、もちろんはじかれました。

「伊勢のいとなみ」というコンセプトだけ採用されてしまい、NHKの日本風土記みたいに美談に仕上がってしまいました。(-。-;

日本社会を動かす政治家兼大企業主権は、神事と呼ばれるいとなみであっても、それを支える人たちのことは、実際には何もたいして考えてません。「営む人たち」のことは本当に人ごとです。あの企業の人たちは美談ともしくは当たり障りのない情報で、インパクトある訴求効果を求め、有益ばかりを追いかけて、全く地に足がついとりません。

デザイン事務所で要らない訴求ばかりをゼロから作り上げるバカらしさ。

ハッタリでしかない。ハッタリ広告デザイン。
ハッタリ訴求デザイン。

そのハッタリデザインの訴求効果が高いと、社長が大喜び。(-。-;

デザイナーは毎度企業の期限のための不要緊急労働を給料のために頑張ります!宣言をする。(-。-;

内心は、多分、苛立ちや疲れきった心身への不安。

他の企業でも、土をコンクリートで固めて、空き家だらけなのに不労所得で儲ける企業。原発や車や流行らない家電製品を海外に売るために汗水流して働いたり、化学製品を必死に開発したり、添加物満載の食品を冷や汗かきながら加工して作ったり、病気を作る薬やワクチンを売るために医療機関が儲かったり。忙しいから手っ取り早く消費出来るその品物が認知されて売れていく(-。-;

しまいには、水も種も森林も人材も売られ、毒物ばかりが生産されていく。

社会貢献なのかな。。

とことん働かせて、考える余裕もなく、規制概念に従事し、コンプライアンスやマスク(苦笑)が社会で自分が作動する免許みたいに使われて、上手いことコントロールされ、確かな報道はなく、判断すらつかない毎日の中で心身共に疲労困憊でイラつき、どんどん余裕がなくなり、対立して排除され、頭に血がのぼりながら一人ひとりが無力化していく。

もう、そのような環境にも心身にも毒になるものや、不要な労働やコントロールは、

マジで不必要だと思いませんか。

今日、夫とそんな話をしてました。

思い切ってあいつらに対して、ガンジーみたいに非暴力非協力不服従でいたい。

自分たちのコミュニケーション「意思疎通」「絆」と思想や哲学を育み、ガンジーみたいに不要なものを燃やして(当時はイギリス衣服)、自分たちで自分たちのコミュニティを築き、生活に必要なものを自分たちで作って、非暴力具合をうまくパフォーマンスしてネットで海外から先に訴求し、認知されて、自立したいね。無理かな。と話しながら庭の小さな畑作業をしてました。

多分、今、私たちが対立分断で細分化されたままなら、無理だと断言したくないですが、無理だと現段階では、そのように考えてます。

以前、手っ取り早く一般国民の生活の底上げする反緊縮政策を掲げている政党に期待しましたが、それこそハッタリで自分たち本位の自分たちが気に入った人だけの救済に紛争する人らがいたら、

無理矢理共存するのも難しいです。

その当事者に誠実に指摘しても好戦的な反応をして、それこそ不要な争いに巻き込まれて疲れてしまう。

巻き込まれず非暴力を挑発するように毅然とした態度でいたら、おそらく好戦的な人の暴力性がより浮き彫りになります。その後はひとりひとりの受け方がSNSで可視化されます。暴力性が問われる。

そのことで、より明確に非暴力な人を見つけることも可能になります。

そんな、これみよがしな戯言を言いたくなる、ちっぽけな自分です。

私に映る現実現象の戯言です。



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