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漫画と実写 - 「推しの子」実写化の報に思うこと


わたしはかつて、かなりの漫画好きでした。このnoteでも時々書いている、藤子不二雄先生おふたりの作品は、わたし自身の人格形成にまで影響を与えたといえるほど大きな存在ですが、それ以外にも色々と読みました。

児童漫画、少年漫画、少女漫画、青年漫画など、その作品の想定読者層も多岐にわたります。「ドラえもん」と「キャンディ♡キャンディ」と「花きゃべつひよこまめ」と「ゴルゴ13」と「ねじ式」と「ナニワ金融道」を、ほぼ同時期に読んでいたこともあります。

多くの人が読んでいる人気作品を積極的に読むというよりは、最初の方をパラパラと眺めて、内容に興味を持ったらそのままハマるという感じでしょうか。だから有名作品でも全く読んだことのないものは多いですし、逆に隠れた名作で好きな作品も結構あります。

そんなわたしですが、ほんの2~3年前までは漫画を読むこと自体が、ぐっと減っていました。その背景には、ドラクエ10に夢中になっていたということもありますが、どうしても置き場所を占有する雑誌や漫画本をほぼ買わなくなり、本を読むよりもネットニュースやブログ記事などが、わたしの読み物の主軸になってきたということもあります。

漫画「推しの子」を知ったきっかけ

あるとき、「ピッコマ」や「LINE漫画」などのアプリを知り、一定時間待てば続きを無料で読める作品を中心に読むようになりました。しばらく漫画からも離れ気味だったとはいえ、生来の漫画好きですので、面白い作品に出会いさえすれば、漫画を読む習慣は容易に戻ってきます。

推しの子」は、その流れで読み始めた作品です。人気作品なので、タイトルをよく目にするようになってはいたのですが、読む前にはさほど興味を持っていたわけではなく、たまたま1話から読んでみたら面白かったため、そのままハマってしまったという出会いでした。

その「推しの子」は、アプリの無料区間まで読んだ後は、単行本を揃えて一気に読みました。今も「少年ジャンプ+」というアプリで続きが更新されたら読んでいます。アニメ作品も観ましたが、原作の持ち味を存分に生かしていて、とてもよくできていました。

「推しの子」の実写化

さて、最近「推しの子」を実写化するというニュースが飛び込んできました。率直に申しまして、わたしは漫画の実写化全般に、非常にネガティブな印象を持っています。

もちろん漫画原作でも、日常生活をきっちりと描いたドラマには、名作と呼べるものもあります。古い作品を挙げれば、藤子A先生の「まんが道」。昭和末期にNHKでドラマ化されていますが、本当にしみじみと良い作品でした。わたしが知らない作品の中にも、原作ファンを納得させるだけの良作もあるという話も聞いています。それはその通りでしょう。

問題は「漫画ならではの説得力をもつ描写」がある作品です。それを実写化することで、途端に空々しくなってしまう危険があるためです。

推しの子」の実写に際して、原作者・赤坂アカさんは、「(芸能界に)批判的な事も言っています」と、その意味において実写化に懸念をもたれていたという趣旨のコメントをされていますが、わたしの懸念は、この作品の登場人物を生身の人間が演じることに対してです。

漫画における「天才」の描写

たとえば、美内すずえさんの傑作「ガラスの仮面」では、北島マヤという天才女優が芝居を演じるシーンがたくさん登場しますが、読者が見ているのは「北島マヤの芝居そのもの」ではなく、「天才女優である北島マヤが天才的な芝居をしている描写」です。

白泉社文庫 美内すずえ著「ガラスの仮面」第11巻 P.98~99

もっといえば、その芝居を見る人々が「見事だ…」というようなセリフで、彼女の芝居を誉めそやす描写などの演出を見て、これは「天才的な芝居をしているシーンだ」と、そう認識しながら読むわけです。物語が面白いので、劇中劇を観る人々の反応を受け止めながら、ぐいぐいと作品世界に引き込まれていくのです。

これは漫画であればこそ可能な演出といえます。

ところが、仮に「ガラスの仮面」を実写化したとすると、わたしたちの目には、そのまま「天才的な芝居」が飛び込んできます。その実写作品内における北島マヤの芝居を、仮に「天才的とはいえない俳優」が演じているとすれば、途端に説得力をもたなくなる、そういう危険があるのです。

そして「推しの子」で描かれているのは「およそ現実離れした天才的なアイドル」です。漫画では自由自在に演出できるからこそ、この人物は天才的なアイドルだ!と読者は認識できますが、生身の人間がアイを演じて、はたして観た人の多くを「アイ」だと納得させられるでしょうか。

アイだけではなく、この作品には天才女優有馬かな黒川あかねも登場します。天才女優というくらいですから、まさに北島マヤのような存在を実写で演じなければならないのです。なかなかハードルが高そうです。

公開されたビジュアルを見る限りでは、再現力は高いと思います。ただしそれは、あくまで「見た目」の話であって、はっきり言ってしまえば、演技力を必要としないコスプレであっても再現可能でしょう。それが実際のドラマや映画になると一体どうなるのか……。原作ファンとしては非常に懸念点の多い実写化のひとつだと思っています。

なお、作品を実際に観ていない段階で、作品そのものを批判することはできませんので、これはあくまで実写化という「一報」を聞いた時点での所感だとお考えください。現段階では、実写の「推しの子」が作品として成功するか失敗するか、誰にもわかりませんので。

なぜ漫画を実写化しようとするのか

人気漫画を「映画化」「ドラマ化」するというニュースが出ると、SNSなどでは、どちらかというとネガティブな反応が多く出ます。漫画作品のファンであればあるほど、どこかに「好きな作品を実写化してほしくない」気持ちが内在しているのでしょう。なぜなら過去事例からも、作品として大失敗する可能性が決して低くはないからです。

そのようにネガティブな反応が出ることは、関係者は百も承知のはずです。にもかかわらず、なぜ人気漫画を実写化しようとするのでしょうか。それは、オリジナル脚本の作品でリスクを負いたくないからでしょう。

製作者(資金を出し、利益を回収する立場)は、儲かる可能性が高いから、漫画原作をやりたがります。すでに原作が大ヒットしているので、実際の作品の出来が良かろうと悪かろうと、話題になることで広く周知され、その流れで視聴率や観客動員数をある程度見込めるのです。

このやり方は、経営的には間違っていないにせよ、作品としては「漫画に対する敗北」に他ならないとわたしは考えています。

かつて「踊る大捜査線」という名作ドラマがありました。あの作品に笑い、涙したわたしとしては、あれを超える大傑作ドラマを生み出してほしいと願っています。漫画原作の人気にすがる作り方を続けているうちは、なかなか名作は生まれてこないでしょう。

あえて「映像」を封印したアニメの例

いわゆる「魔法少女もの」と呼ばれるアニメの傑作に「魔法のプリンセス ミンキーモモ」という作品があります。1982年に第1期、通称「空モモ」が作られ、1991年に第2期、通称「海モモ」が作られました。

この「ミンキーモモ」両シリーズで原案と構成を手掛けているのは、脚本家の首藤剛志さん(1949~2010)。のちにアニメ「ポケットモンスター」の脚本も手掛けることになる、アニメ史に残る名脚本家です。

これは「海モモ」時代のお話です。この作品のドラマCDが作られることになり、首藤さんは「アニメでは表現できないドラマ」を目指します。この作品について、首藤さんご自身が文章を書かれていますので、少し長くなりますが、そのまま引用します。

 『ミンキーモモ』のCDドラマ……つまり絵のない音だけでなければ不可能なドラマとは、以下のような内容のストーリーだった。
 目の見えない画家が、大人に変身したミンキーモモの存在感を全身で感じて、大人のミンキーモモをモデルにして絵を描く。
 目が見えないから、それが、具象画にしろ抽象画にしろ、大人のミンキーモモの実際の姿とは違うだろう。
 やがて、2人の間には淡い恋心のようなものが芽生えるが、画家の恋するミンキーモモは、魔法で大人になったミンキーモモで、実際のミンキーモモとは違う。
 大人のミンキーモモを描いた絵はみんなから評価され感動を呼び、画家は目の治療をして、目が見えるようになる。
 画家は、モデルになった大人のミンキーモモを探そうとするが、実際のミンキーモモは子供である。
 魔法で大人になったミンキーモモは、現実に存在するミンキーモモではない。
 2人の恋は叶うはずもなく、「四月の雪」のようにはかなく消えていく。
 このストーリーがなぜアニメにならないか……その訳は簡単である。
 この話のキーポイントになる目の見えない画家が描いた大人のミンキーモモの肖像画がどんな絵なのか、視聴者が納得できるものを実際のアニメや映像では描けないからだ。
 具象画なのか抽象画なのか……そして、みんなから評価され感動を呼び起こす絵とはどんなものか、アニメや映像では表現不可能である。
 視聴者がアニメに出てくるその絵を見て、素晴らしいと感じてくれなければ、このストーリーは、たちまち白けてしまう。
 画家とミンキーモモの心をつなぐ絵が、視聴者の感動を呼ぶような名画でなければ成立しない話なのだ。
 そんな名画を描ける人がアニメ界にいるとは思えないし、仮にいたにしても視聴者の好みがあるから、その絵に感動してくれるかどうか分からない。
 だが、音だけのドラマや文字だけの小説なら、その絵を見る事ができないから、ミンキーモモの肖像画を、それぞれ心の中で想像して思い浮かべる事ができる。
 その絵が具体的に見えないからこそ、その絵が聞き手の心の中に存在できるのである。
 『魔法のプリンセス ミンキーモモ』のCDドラマ「雪がやんだら」は、そんなストーリーだった。

引用元:シナリオえーだば創作術 第94回「海モモ」を支えてくれた人たち3
WEBアニメスタイル

先に「天才女優」や「天才的なアイドル」という、漫画ならではの表現を、実写で、つまり生身の人間による演技によって、説得力をもたせるのは難しいという話をしました。

「海モモ」のドラマCDのストーリーでは、「目の見えない画家が描いた大人のミンキーモモの肖像画」が登場し、これが作中で人々から高く評価されるわけです。仮にその絵が画面に大きく映し出されたとして、それを見た(現実世界の)人々が、作中の人々のように高く評価するとは限らないと。

視聴者が納得できるもの」にならない以上、その絵を見せても説得力がない。だから、その絵を実際に映し出す必要があるアニメでは表現できない、ということを書いておられます。

実際には、演出次第でアニメでも表現可能ではありますが(絵を遠景にして映す、描いている画家や絵を見ているモモのみを映して、絵そのものは画面に出さないなど)、いずれにしても「絵そのものをはっきり見せると説得力を失う」という点は、わたしにもよく理解できます。

つまり、「生身の人間の演技で、観る人すべてに対して説得力のある天才女優、天才アイドルを表現することは難しい」という点と同じです。

ここでは、アニメ作品からあえて映像を取り除くことで、ドラマCDの名作が生まれたという例をご紹介しました。「雪がやんだら…」は、林原めぐみさんたちの演技も、岡崎律子さん(1959~2004)の歌声も本当に素敵で、奇跡的なドラマCDに仕上がっています。

実写作品は、当たり前ですが映像と音ですべてを表現します

漫画はセリフ(文章)と絵のみですが、たとえば「どちらの人物のものかわからないモノローグ」というような表現もできます。

はっきりと声に出してしまう実写では、そのような表現は成り立ちませんし、ある天才画家が描いた絵を画面に映し出して見せて、視聴者からの称賛を得ることも非常に難しいのです。

先に挙げた「ガラスの仮面」などの少女漫画では、たとえば天才的な演技をする北島マヤの背景に大きな花が描かれていたり、あるいはよくわからない浮遊物が描かれていたり、独特な表現も多数あります。仮にそういう表現を実写でそのまま再現すると、ギャグになってしまいます。

このように、漫画だから成り立つ表現や演出もあるにもかかわらず、人気作品を安易に実写化するという風潮に違和感を持ち続けています。

実写「推しの子」は、すでに制作が決定してしまった以上、このような懸念を吹き飛ばすような大傑作にしてほしいと思っています。

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