ときには和を乱す勇気が必要なことも
和を大切にとはよく言うもの。
そもそも和と言えるものとは。
和は平和であること。
平和が、素晴らしいことであることには変わらない。
ただし、平和に見えるもののなかには、実は平和でなく歪んでいるものもある。
所属しているコミュニティが平和であると思えることは素晴らしい。
しかし、中には言葉にしなくても、メンバーのなかに平和であると思えない人もいる。あるいは、平和でなく歪んでいると思うものもいる。
コミュニティのほかのメンバーが気づかないだけで、中には歪んでいることを言えない人もいる。今はよく見えても、いずれ綻びることが見えるコミュニティもある。
そんなコミュニティに所属する一人が、指摘するとする。そうすると和を乱す人として嫌われたり、除外されたり、非難されたりする。
争いではなく、一意見。
ある人がコミュニティにとって今後起こりうるトラブルを回避するために言うこともある。
トラブルは未然に防げる方がいいから。
多くの人が傷つく前に。
一見優しく見えるもの。
行動と伴わないこともある。
またきれいすぎる言葉は、魂が籠っていないこともある。
言霊とは、心から出た言葉。
きれいな言葉は、きれいな心から生まれるものとは限らない。
きれいな言葉は饒舌であれば話すこともできる。
言霊は、きれいと言うよりも、心にドカーンと入ってくる。
きれい過ぎる言葉は、美術的なもの。
言葉によって感動することもあり、うっとりすることもある。
そこには言葉を発する人の意図が込められていたり、意図的なものも含まれている。
言葉は伝えるものだから。
感動させる狙いとは?
一方の言霊とは、発せられた言葉には願いや意思が込められている。
言葉を美術で考えると、視覚的なものと、ストーリー性で見ることがある。
絵には見たままの絵のほかに、その背後にある人の感情や意図したいことが見え隠れしている。
美術鑑賞は、慣れるまで見たままの絵の描写でみる。
もちろん、これも大事。
慣れてくると、その背後の人の心情が見える。
上野の美術館で、娘が「人を追い払うイエスキリスト(だったかな?)」の絵を見て、「ママ、イエスキリストが仕事している」と話していました。
娘は絵が好きです。
視覚芸術としてのほか、絵の背景にあるストーリーを読むと話してくれました。美術の先生に仕込まれたとか。12人の使徒がいるのに、自らイエスキリストが前にいると。
よっぽどのことだったのでしょうか。
そんな風に見ると、絵にストーリー性を持たせると、描いた人の心情が見えてきます。
言葉も同じです。
人それぞれで片付けることもできます。
ただ、中には本当に心配する人もいることをお忘れなく。
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