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花のように、鳥のように。

私は物事を深く掘り下げていくのが苦手です。
他人に「ねえ、どう思う?」と問われると答えに詰まりやすい。
自分の思うことを話すのは好きなのですが…。

SNSもやっているわけですが(noteもそうですよね?)Xとかポストしていると、何か問答をしたいような方々がリポストされてくるのですが、これが苦手です。

私は、このような人間ですから「ごくごく普遍的な」ポストしか出来ません。
嫌いは嫌い、好きは好き、という具合で、特に狙いがあるとかは無いのです。
ゆえに禅問答のような、もしくはディベートのような論戦は避けたいし、正直どうでも良いと思っています。

揚げ足を取っているわけではない、というのは理解しているのです。
懸命に反論し、理路武装している。
でもそれは私にはやはり「どうでも良い」事です。
どちらが正しいかを競う意思など微塵も無いのですから。
ただ単純に、こういう考えは?とか、こういう見方もあるよね?とかの提言を書いているに過ぎないのです。
今回のnoteも同じようなものです。

Xのポストの一部を集約すると
「ある事件が起き、親族が加害者の弁護を行ったその内容に対しての私見」
…についてポストしたわけです。
ただ先に書いたように、私は「内容についての言及」はしていないのです。
やはり非常に単純な事を書き込みました。
「加害者であれ被害者であれ、その立場を越えて言えるのは、危害を与えようとした時点で、即ちそれは良くないこと」
…である、というものでした。
理由は双方存在したわけで、そのどちらもが持っていたであろう負の感情。
その負の感情が良いものであろう筈もなく、結果的に事件に発展していったわけですが、そこでまず断ずべき事が
「いけないものは、いけない」
…という大前提に立ち返る事だと思ったのです。

そこを抜きにしての議論など、まるで出来の悪いエンタメでは無いですか?。
双方の言い分を拾い上げて展開し、贖罪の重さやらを量るのは法律を行使する人の役目です。
第三者がいかにそれを言い合おうと、何の意味もない。
そんなどうでも良いことをするくらいなら、まずは「これは看過して良いものですか?」を討議しないといけないのではないでしょうか?。

情を秤にかけても、結果は出ません。
明確なのはその行為が、そしてその行為に至る感情について、その白黒を明確にすることです。

人間の感情ほど、千々に乱れ振れてしまうものはありません。
それを面白がる傾向というのは昔からありますが、現在ほどそれがあからさまに叫ばれている時代は、過去には無かったはずです。

どこか狂っている。
表層であるに関わらず、事実と名のつくものだけに拘泥し、そこから答えを導きだそうと執着する事は、結果としてすべての事実を歪曲させ、闇の彼方に捨て去る事になります。
…夥しい数の、ほぼ無関係な人たちを傷つけながら。

無意識の自動暴力。
…我々はAIのような、データだけで固められた世界を選択してしまうのでしょうか?。
人間としての生き方、存在を捨て去って、生まれたなら死ぬまで働き続けるような、意思無き世界を歩もうとするのでしょうか?。

私は真っ平御免です。
これからも当たり前の事を問い、語りながら生きていたい。
花のように、鳥のように。



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