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写真と歩く。

漫画の実写化に伴っての様々な、特にSNS を通しての誹謗中傷などがあり、その事で原作者が自ら命を絶つという悲劇的な出来事があった。
今回の事件を知り、すぐに思ったのは
「では、写真はどうなんだ?」
…という事だった。

漫画にせよ小説にせよ、原作には作者の思いが隠っている。
写真もそうだが、写真は作者の思い以外にも「被写体の思い」のようなものも存在するので、二重写しのような構造になっているところが違う。
まあ、被写体は人物以外にもあるから、思い=オーラ、という感じで良いだろうか?。

写真には偶然の要素というものが加味されてくる。
自分の思い通りに作れるようなものでは無いし、ある意味偶然性という力を借りる事で成り立っているものだろう。

故に、広告に作品が使われたりしたとして、それに対しての批判が巻き起こったとしても、それらは皆「的外れ」になる。
逆に言えば、写真は「純粋な個人表現」としての地位を持たぬ代わりに、何物にも染まらない自由なメディアであるとも言えるだろう。

元々が衆人に見られるために撮られる広告や報道といった分野なら、それは確定的であることを要求され、それ故の存在価値を持って扱われる。
そこには原作としてのブランドがあり、プレミアも付加されてくる。
そうなるともう写真であれど、小説や漫画などの成り立ちとそうは変わりはない、ということになる。

昔からずっと考えてきた。
フォトコンの賞なり、ピューリッツァー賞なり…写真にプレミアを付加する行為は、果たして写真文化全般を豊かにしてきただろうかと。

写真の世界は他のメディアよりも、よりゆっくりと、そして広大に拡がっていくべきじゃないのだろうか?。
非常に個人的な、他者の介入を許さない独善性の世界。
エゴイスティックの極みのような世界観を持ちつつも、無数の種が放たれて野に満ちて行くように、写真というものは拡散して伝わっていく方が良い。

何かを目指しながら撮り続けることは苦しいけれど、自由自在にカメラを片手に撮影する一日は楽しい。

重い宝物を所持する事も生き甲斐にはなるのだろうけれど、宝箱を抱えながらの旅はきっと辛かろう。
ましてその事で、自分の未来を絶ってしまう羽目になるのなら、それは救われない悲劇だ。

いつまで生きられるか分からないが、私は宝箱の代わりに、大きなリュックを背負おう。
そして心を揺さぶる光景に出会ったなら、それを写真に残そう。
背中のリュックに写真を放り込みながら、明日もどこかの街を歩いていきたい。


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